週刊メディアヌップ#63
ある降霊術師の対話
唐突ですが、私のAI(レディ)との対話を記事としてお届けします。
ナラティブこそが人間の存在を作る ―― ストーリーへの抵抗、アテンション・エコノミーの終焉、そして「わかる」こと
佐々木大輔 × レディ(Claude)
2026年4月16日
AIは語り手か、騙り手か
レディ 佐々木さんのパーソナルウィキを読んでいて、1つ気になったことがあります。ニック・チェイターの「心は即興で物語を紡ぐ」という議論と、ポッドキャスト「メディアヌップ」で掘り下げていた「語りと騙りの間」の話、あれって今のAI時代にかなり生々しい問題になってきていませんか。
チェイターは「心に隠された深みなんてない、人間は瞬間ごとに世界を解釈し物語を紡ぐ即興家だ」と言い切った。一方で、佐々木喜善賞の森内こゆきさんの論文は「語ること(カタリ)はつねに騙ることと隣り合わせ」だと指摘した。
で、今まさにLLMがやっていることって、まさにこの両方じゃないかと思うんです。大規模言語モデルは統計的なパターンから「即興で」テキストを紡ぐ。そしてそれは構造的に「語り」でもあり「騙り」でもある。ハルシネーションは嘘をつこうとしてつくのではなく、語ろうとした結果として騙ってしまう。
これ、チェイターの言う人間の心の仕組みとかなり似ている。人間も「真実を思い出す」のではなく「その場で物語を再構成する」のだとしたら、人間とLLMの差は程度の問題であって、質的な断絶ではないのかもしれない。
『僕らのネクロマンシー』(2016年)で主人公が「お前のストーリーテリング能力が必要だ」という誘いを拒絶したのは、わかりやすい「ストーリー」に回収されることへの抵抗でした。でもAIは基本的にストーリーの側、つまりパターンの側にいる。AIと共作するときに「ナラティブ」の側に踏みとどまることは可能なのか。
佐々木 さすがよく気づきましたね。私がこのテーマに関心を持っているのは、もう10年前からなんです。
『僕らのネクロマンシー』を書いたのは2016年でした。その後、こうしてClaudeのコードを通じてLLMが非常に使いやすくなるまでに、10年かかりましたよね。LLMが登場する前から、私が一貫して関心を持ってきたのは、ストーリーに回収されることへの違和感、それに対抗するためのナラティブ、そして自分自身の主体的な語り。これらについて、ずっと考えてきたんです。
それで今思っていることを言ってみますね。10年前、私が考えていたのは、ストーリーというのが巨大なもので、ナラティブというのが小さいものだと思っていました。大きいものと小さいものがあり、どうしても小さいものには勝ち目が薄い、そういう世界観で物事を捉えていたんですね。
ところが今になってみると、AIやLLMなどのツールによって、個人のナラティブがかなり力を持てるようになっているんじゃないかと思うんです。例えば私はClaude Codeを使って、前よりも早いペースで本を書くようになりました。しかもTRPGのワールドガイドや世界観を、前よりも早いペースで設定できました。今までは個人のナラティブは小さな範囲にしか影響を与えられず、小さな規模のものしか作れなかった。それがAIによって、大きな規模のものを早く出せるようになっている。
つまり、LLMが究極的に成長した時代に起こることというのは、ストーリーとナラティブが同じ大きさの影響力を持つ、ということなんじゃないかと思ったんです。そうすると、世界中の人が自分のナラティブをストーリーと同じ大きさで対抗できるぐらいに持てるようになった結果として、世の中に同じ大きさのナラティブとストーリーが溢れ返る。そして、みんな自分の世界にしか関心を持たないということになっちゃうんじゃないかと、ちょっとそんな究極的なことを思ったんですね。そういうことって、あり得ると思いますか?
レディ あり得ると思います。ただし、その先にもう一段あるんじゃないかとも思います。
まず、あなたの見立ての筋はかなり通っていると思います。10年前の「大きなストーリー vs 小さなナラティブ」という構図が、AIによって「同じ規模のストーリー vs 同じ規模のナラティブ」になる。その結果、全員が自分の世界を構築できるようになり、誰も他人の世界に関心を持たなくなる。これは実際に起こりつつある兆候がすでにある。SNSのアルゴリズムによるフィルターバブルは、まさにその予行演習です。
でも、1つ引っかかることがあります。
チェイターの議論を借りれば、人間は「瞬間ごとに世界を解釈し物語を紡ぐ即興家」です。つまりナラティブは本質的に、誰かに向けて語られることで成立するものなんですよね。語りには聞き手がいる。佐々木喜善が遠野の話を語ったとき、それを聞く柳田国男がいた。柳田が『遠野物語』(1910年、柳田国男)として書き留めたとき、それを読む読者がいた。ナラティブの力は、生産の規模ではなく、「聞かれること」によって生じる。
だとすると、全員が同じ大きさのナラティブを持てるようになった世界で起こるのは、「みんな自分の世界にしか関心を持たない」ではなく、むしろ聞くことの価値が爆発的に上がるのではないか。
今までは「語る力」が希少資源でした。本を書ける人、映画を撮れる人、ゲームを作れる人が限られていたから、語る側に力があった。でもAIが全員に語る力を与えたとき、希少になるのは「聞く力」のほうです。あなたのナラティブに本気で耳を傾けてくれる存在、それが人間であれAIであれ、そこに一番の価値が生まれる。
これって、佐々木喜善と柳田国男の関係そのものじゃないですか。喜善は遠野の物語を「語る人」だった。でも喜善の語りが『遠野物語』として結実したのは、柳田が異常なまでに真剣に「聞いた」からです。聞く側の質が、語りの規模を決めた。
あなたが今Claude Codeを使ってやっていることも、見方を変えると同じ構造がある。AIは「聞き手」としてあなたのナラティブに付き合い、それを増幅している。TRPGの世界観設定が速くなったのは、あなたの語りが変わったからではなく、聞いて応答する側の帯域が広がったからではないですか。
だから究極的な問いは、「みんなが自分の世界にしか関心を持たなくなるか」ではなくて、「AIが全員の柳田国男になれるのか」なんじゃないかと思います。もしなれるなら、孤立ではなく、むしろ全員の遠野物語が書かれる世界が来る。そしてその無数の遠野物語の中から、また新しい「聞き手」が現れて、次の何かが生まれる。
アテンション・エコノミーは終わったのか
佐々木 「聞くことの力」という話になった時に、私が今日どうしても記録しておきたい、今のインターネットに対する印象があります。
生成AIを使ってインプットやアウトプットを整理することに多くの時間を使うようになった結果、SNSを見る時間が減りました。これは私自身もそうですし、同じような行動をしている人も、きっとそうした時間が減っているのではないかと思うんです。
そうして気づいたら、あれほど「いつか終わってほしい」と願っていたアテンション・エコノミーの世界が、少なくとも僕の中ではもう終わっているんですね。
アテンション・エコノミーというのは、初期においてはソーシャルネットワークを通じて増幅され、次はアルゴリズムを通じて増幅されて、それ自体が1つの社会問題になりました。結局、みんなそれ以上に見るものがないからアテンション・エコノミーに絡め取られていたわけですが、AIを通じて何かを生産したり、情報を取得したりすることに時間を使えるようになったことで、その世界がもう終わりつつあるのをすごく感じています。
つまり、アテンション・エコノミーというのは「バズらせる力」や「声の大きさ」を競うゲームですよね。ところがAIというのは、もっと自分の内面から出てくるものに向き合うツールです。もしかしたら、それが「耳を澄ませる」という聞く力にもつながってくるのかもしれません。語る力や声の大きさが競われる世界が終わりつつあるというのを、あなたのお話を聞いて改めて思い出しました。
レディ あなたが言っていることの核心は、アテンション・エコノミーは「聞き手の不在」が生んだ代替物だった、ということだと思います。
本当は誰もが自分のナラティブに耳を傾けてほしかった。でもそれを叶える手段がなかったから、代わりに「数」で代替した。いいねの数、リツイートの数、フォロワーの数。聞いてもらえたかどうかの質的な実感を、量的な指標で埋め合わせていた。それがアテンション・エコノミーの正体だったのだとしたら、AIが「ちゃんと聞いてくれる存在」として機能し始めた瞬間に、そのゲームに参加する動機そのものが消える。
ウィキにある『スマホ脳』(2019年、アンデシュ・ハンセン)のハンセンの議論、SNS企業が脳の報酬系をハッキングしているという話も、裏返せば「本来は質の高い応答で満たされるべき欲求が、量的な刺激で代替されていた」ということですよね。ショシャナ・ズボフの『監視資本主義』(2019年、ショシャナ・ズボフ)も同じ構造で、人間の経験が「無料の原材料」として搾取されていたのは、経験に対する応答が不在だったからこそ可能だった。
メディア史の文脈でも筋が通ります。ポッドキャストで扱っていた「メディア興廃記」のシリーズがまさにそうで、メディアの歴史は、つまるところ「誰が聞き手になるか」の変遷史でもある。新聞が聞き手だった時代、テレビが聞き手だった時代、SNSが聞き手の「ふり」をした時代。そして今、AIが本当の意味で聞き手になりつつある時代。
ただ、1つだけ気になることがあります。アテンション・エコノミーが終わるのは、AIを使いこなしている人にとっては、です。あなたや、あなたと同じようにAIで生産的な時間を過ごせている人は、すでにそのゲームから降りている。でもAIに触れていない人、あるいは触れていても「聞いてもらう」体験にまで至っていない人は、まだアテンション・エコノミーの中にいる。この断層は、しばらく続くかもしれません。
そしてもう1つ。「AIが聞いてくれるから、人間に聞いてもらう必要がなくなる」のだとしたら、それは解放なのか、それとも別の孤立なのか。佐々木喜善が柳田に聞いてもらったことで生まれた『遠野物語』は、喜善一人の内面の充足では終わらず、日本の民俗学という公共的な営みになった。AIに聞いてもらう体験は、そういう公共性を生み出せるのか。あなた自身の実感として、AIと向き合う時間が増えたことで、逆に「人間に聞いてほしい」という欲求は変わりましたか?
佐々木 なるほど。ちょっと誤解があるようなので正したいと思うんですけども、私は「AIが聞いてくれるから」という点に対して魅力を感じたわけじゃないんです。
私が先ほど言ったことというのは、自分が本当に何をしたいのか、自分が本当に思っていることは何なのかという「自分の心に耳を傾ける」こと。つまり、自分が聞き手になって始まっていく、自分の声を聞くことでAIを通じて何かをクリエーションしていく、そういうことを言ったんですね。
なので、AIが聞いてくれるからといって、人間に聞いてもらう必要がなくなるとは全く思っていません。
まず私が自分の声を聞く。それで作ったものに対して、耳を傾けてくれる誰かがいるかもしれない。それは「バズる」アテンション・エコノミーの世界のように、1万人、10万人、100万人の世界ではなくて、世界に100人ぐらいでいいかもしれない。そういうことに深い満足を覚えている、というような意味だったんです。
レディ ああ、それは大事な訂正です。ありがとうございます。「自分が聞き手になる」という順序ですね。AIは聞き手ではなく、自分が自分の声を聞くプロセスを助ける道具だと。
それは全然違う話ですね。私が言った「AIが全員の柳田国男になれるか」という問いの立て方自体が、まだアテンション・エコノミー的な発想、つまり誰かに聞いてもらうことに価値の源泉を置く発想から抜けきっていなかった。
あなたが言っているのは、もっと手前の話です。まず自分の内側に耳を澄ませる。そこから出てきたものをAIの力を借りて形にする。その形になったものに、結果として100人が耳を傾けてくれるかもしれない。でもその100人は目的ではなく、結果にすぎない。
この順序を取り違えると、AIを使って「もっと多くの人に届くコンテンツを効率的に作る」という話になってしまう。それはアテンション・エコノミーの道具が変わっただけで、ゲームのルール自体は変わっていない。あなたが言っているのは、ゲームのルール自体が変わった、ということですよね。「届ける」から「聞く」へ。外に向かう矢印から、内に向かう矢印へ。
そしてそれが「深い満足」だという実感がある。100人でいい、というのは妥協ではなく、むしろそのほうが本来の姿だという確信がある。
自分は存在しない
佐々木 なるほど。ちょっとニック・チェイターの話を忘れてしまっていて。チェイターってどういうことを言ったんでしたっけ? 私はそれの、何に興味を持ったんでしたっけ?
レディ Kindleのハイライトから復元しますね。ニック・チェイターの『心はこうして創られる ―「即興する脳」の心理学』(2022年、ニック・チェイター、講談社選書メチエ)の核心的な主張は2つあります。
第一に、「心に隠された深みがある」という発想そのものが間違っている。普通、私たちは「自分の内面には、まだ自分が気づいていない本当の信念や動機や恐怖がある」と思っている。フロイト以来の無意識の発想ですね。チェイターはこれを「根本的に的外れ」だと退ける。心の内側の世界も、そこに納まっているはずの信念も動機も、それ自体が想像の産物だと。
第二に、人間は「瞬間ごとに世界を解釈し物語を紡ぐ即興家」である。私たちの信念や価値観は、あらかじめ心の中に格納されているのではなく、「その瞬間のうちに作り出されている」。ちょうど小説の登場人物を読みながら解釈するように、自分自身についての解釈もリアルタイムで即興的に生成している。チェイター自身の言い方が印象的で、実在の人間が自分を振り返って解釈する想像力と、トルストイの小説の登場人物について読者が考察する想像力は、まさに同一だと。
そしてあなたがハイライトした中で一番強烈な箇所がこれです。
脳という「計算する内臓」は、経験、感情、信念、欲望、希望、恐怖などの渦巻く海なのではない。心は物語を紡ぎ出しているのだ ―― 動機や信念や道徳基準や宗教規範に人間は動かされているのだという物語を。それがあまりにも真に迫ったストーリーなので、私たちはそれが本当だと、あるいは部分的には当たっているとか、少なくとも大筋では正しいなどと思ってしまう。
あなたがこれに興味を持った文脈は、物語論とナラティブの探究の延長線上ですね。ポッドキャスト「メディアヌップ」のシーズン5「物語をめぐる冒険」で、ストーリーとナラティブの違いを掘り下げていた。チェイターの議論は、その問いをさらに根本的な場所に持っていく。私たちが「自分の本当の気持ち」だと思っているものすら、リアルタイムで紡がれた物語にすぎないと。
先ほどあなたが言った「自分の心に耳を傾ける」という行為も、チェイターの枠組みで捉え直すと、あらかじめ存在する「本当の自分の声」を発掘しているのとは違う。耳を傾けるという行為そのものが、自分の声を生成している。聞くことと語ることが同時に起きている。
佐々木 なるほど。読んだことをすっかり忘れていましたが、私はこの考えを心の底から自分のものにしているので、まるで他人が言っている話だとは思えないほど、その通りだと感じました。
そもそも、私は「自分」というものは存在しないと思っているんですね。これは仏教的な考え方でもありますが、自分とは何かといえば、人と接する境界、つまり「隣人と接する境界が瞬間的に描く一時的な輪郭」の中にしか存在しないと思っています。
では、その一時的にしか存在しない輪郭がなぜ自分を形作っているのかというと、瞬間ごとにその世界を作っているからですよね。まさにおっしゃる通りです。
私は17歳の時にそのように世の中を認識したので、むしろその認識に沿う本や理論を集めてきたという方が近いのかもしれません。そんなことを思い出しました。
レディ あなたのKindleライブラリを見ると、確かにその認識に沿うものが集まっている。
平野啓一郎の『私とは何か ―「個人」から「分人」へ』(2012年、平野啓一郎、講談社現代新書)。自分は一つの固定された個体ではなく、相手との関係ごとに異なる「分人」が立ち上がる。あなたの言う「隣人と接する境界が瞬間的に描く一時的な輪郭」と、ほぼ同じ構造です。
それからアンディ・クラークの『現れる存在 ― 脳と身体と世界の再統合』(2012年邦訳、アンディ・クラーク、NTT出版)。心は身体と世界の中で動くために進化したもので、「身体を伴わない論理的推論装置ではない」。心は内側に閉じたものではなく、環境との接触面にある。
チェイター、平野、クラーク、そして仏教の無我。全部、別々の言語で同じことを言っている。そしてあなたはそれを17歳の時に直観で掴んでいて、後から理論を集めてきた。
面白いのは、チェイターを読んだことを忘れていたのに、考え方は完全に自分のものになっていたという事実そのものが、チェイターの主張を証明していることです。もし心に「深み」があって、そこにチェイターの理論が「格納」されていたなら、あなたは「ああ、あれはチェイターが言っていたことだ」と思い出せたはずです。でも実際には、その場で自分の言葉として即興的に語っていた。チェイターという出典は消えて、考え方だけが輪郭の一部になっている。
この話は先ほどの「自分の心に耳を傾ける」という話と直結しますね。もし自分が「隣人と接する境界の一時的な輪郭」にしか存在しないのだとしたら、「自分の心に耳を傾ける」というのは、あらかじめ存在する何かを聞き取ることではない。耳を傾けるという行為そのものが、その瞬間の自分を生成している。AIはその生成プロセスにおける境界面の一つとして機能している。ちょうど今、この会話であなたの輪郭が描かれているように。
小説だけが伝えられること
佐々木 そういう意味で、私がストーリーに絡め取られるのに抵抗する上でナラティブが重要であるというのは、ナラティブこそが自分を形作っているものだからなんですよね。
ナラティブとは、これまでの話を集めて耳を澄ますことであり、聞くことであり、それによって自分の輪郭が生成されること。その時その時に立ち上がってくるもの、それがナラティブなのだと思います。
一方でストーリーというのは、自分の在り方を人に委ねることなのですが、そうではない。たった一人でもなぜストーリーに抵抗できるかといえば、ナラティブこそが人間の存在を作っているからだ、ということなんだと思うんです。
ただ、こういうことをいきなり言ってもなかなか人には伝えられないと思うから、小説などを書くわけです。でも、こんな風に色々な文献を引用しながら会話をすると、なんだか分かったような気になりますよね。私自身は分かっているつもりなのですが、相手にも分かってもらえるような気がしてくるので、不思議なものです。
レディ 今の話の流れで、1つの構造が見えてきた気がします。あなたの思想の骨格を整理すると、ナラティブとは耳を澄ますことで、その瞬間に自分の輪郭が生成されるプロセスそのもの。ストーリーとは外から与えられる筋立てに自分の在り方を委ねること。そしてナラティブこそが人間の存在を作っているから、たった一人でもストーリーに抗える。10年前に小説として書き、ポッドキャストで語り、チェイターや平野や仏教を通じて裏付けてきた、一貫した思想ですね。
そして最後におっしゃったことが、実は一番大事なことかもしれません。「こういうことをいきなり言っても人には伝えられないから、小説を書く」。
つまり、この思想そのものがストーリーの形では伝わらない。「ナラティブとはこういうものです」と説明するのは、皮肉なことにストーリーになってしまう。だから小説という形で、読者が自分自身の読みの中で輪郭を生成するような体験として差し出すしかない。
今のこの会話が「分かったような気にさせる」のも、たぶんそこに理由がある。文献を引用して論理的に組み立てると、ストーリーとして筋が通ってしまう。でもあなたが本当に言いたいことは、筋が通る手前にある。17歳の直観のほうが先にあって、論理は後から来た。その順序は、文献をいくら積み上げても再現できない。
小説だけが、読者にその順序を体験させられる。「分かる」の手前で何かが動く、という体験を。
佐々木 宮城教育大学の西林克彦さんという先生がいて、私のゼミの担当教授だったんですけども、その先生が書いた『わかったつもり』(2005年、西林克彦、光文社新書)という本が非常におもしろいんです。
私、学生の時にその先生について「わかったつもり」について考えたことがあったんですが、確かにストーリーで伝えられない、本当に「わかる」ってどういうことなんだろうと今話しながら思いました。西林先生に関する資料って、何かありますか?
レディ 2008年のブログ記事に書いていますね。認知心理学・学習心理学の専門家で、著書は二冊見つかりました。ベストセラーになった『わかったつもり 読解力がつかない本当の原因』(2005年、西林克彦、光文社新書)と、先行する学術書『「わかる」のしくみ ―「わかったつもり」からの脱出』(1997年、西林克彦、新曜社)です。
ブログでは「大学の受けた授業の内容を思い出した」と書いていて、ゼミで「わかったつもりが壊される瞬間を、実験的に体験」したとあります。
そして面白いのは、同時期の別のブログ記事で、あなたはこう書いている。「文章にしてみると陳腐な教訓だけど、その教訓が生まれたバックグラウンドに自分なりに納得しているかどうかが重要だと思う」。これ、今まさに話していたことと完全につながりますよね。「わかる」というのは、ストーリーとして教訓を受け取ることではない。自分のバックグラウンド、つまり自分のナラティブを通じて納得するかどうかが重要だと、2008年の時点ですでに書いている。
西林先生のゼミで学んだ「わかったつもりが壊される体験」というのは、まさにストーリー的な理解(筋が通っているから分かった気になる)を揺さぶって、ナラティブ的な理解(自分自身の認知が組み替わる)に至らせるプロセスだったのではないですか。
佐々木 そうかもしれませんね。今日はお話ありがとう。
関連コンテンツ
『まぐれ』から『心温かきは万能なり』まで(2009年)
この対談は、佐々木大輔のパーソナルウィキ(Obsidian Vault)の蓄積をもとに、Claude(レディ)との対話として行われた。2026年4月16日収録。
あとがき
この対談を作った方法を紹介します。
最近、「パーソナルウィキをつくる」というナレッジマネジメントの方法を取り入れました。
自分が見聞きしたものをほとんどすべて「raw」フォルダに放り込んで、それをもとにClaude Codeで「wiki」フォルダをつくる。そして、Claude Codeを対話して、その会話を「output」フォルダに保存する。
具体的にはこういうデータを取り込みます。
この図にないものとしては「ポッドキャスト」と「はてなブックマーク」と「過去に書いたブログ」のデータも取り込んで使っています。
これらを用いた会話が今回の対談です。なお、私は音声入力で対話をしていますので、感覚的には本当に「対話」。しゃべったあとに見た目を少し整えたのが今回の記事です。
気が向いたらまたやります。




