「一生に一度は、映画館でジブリを。」というコピーのもと、このコロナ禍において多くの人を劇場に向かわせたジブリのリバイバル上映4作品。すなわち『風の谷のナウシカ』『もののけ姫』『千と千尋の神隠し』そして『ゲド戦記』。ねらいが明確なセレクションで、ル=グウィンの『ゲド戦記』に強く影響を受けた宮崎駿監督がそこから得たインスピレーションを直接反映させた作品群である。特に『千と千尋と神隠し』は、真の名をめぐる物語の解決がもろにゲド戦記第一巻『影との戦い』そのまま。公開された2001年当時は今ほど『ゲド戦記』がポピュラーではなかったので、それを密かに敬愛するものとして声に出さない快哉を叫んだものだった。
そのリバイバル上映もまもなく終了ということなので、時間を作って吉祥寺オデオンに観に行った三作品について、新たに、あるいはあらためて気づいたことを書き残しておきたい。
風の谷のナウシカ
1984年公開。当時4歳だったので映画館には行けなかったが、後に古書店でパンフレットを手に入れ、長じてから鈴木敏夫さんにサインをいれていただいた。今回はそれを持参し、心の中で正座しつつ初の劇場鑑賞。
大人になってから真剣に向き合って観ると、プロデューサーの高畑勲が30点と酷評した理由がすこしわかった気がした。漫画版ナウシカの完結や、復讐戦としての『もののけ姫』によって最高到達点が後に更新されたことで、映画版ナウシカまで文句のない素晴らしい作品のように記憶を改竄してしまってたということなのかどうかわからないが、終盤からラストシーンにかけてはちょっと疑問でちょっと不満。
とはいえそれは理屈の話で、劇場で作品を体験するとそういうことはどうでもよろしくなる。今回の気づきは、冒頭の腐海の森の音のデザインが実に素晴らしかったということ。なんていうんでしょう。あの「じゅわ〜〜〜ん」というやつ。圧倒的な異界感と、説得力。あの絵と音だけで「なんという作品だ!」と腰を抜かしそうになった。
また、「そこ」と指し示すことが難しいんだけど、ナウシカとユパが再開して、その別れ際にナウシカがくるりとまわってメーヴェに乗る一連の動き。あの髪の毛、衣服、表情、仕草、そして谷底に向かって遠ざかる飛行物体。あー! 天才アニメーター! みたいな気持ちになった。
さらに、2020年のいま『風の谷のナウシカ』を観るということは、1) マスクなしでは生きられない世界、2) 自治を許されていたはずの風の谷からそれが奪われる、3) 生まれた土地を奪われる人々、といったモチーフがどうしたって 1) コロナ禍 2) 香港の一国二制度の終焉 3) 難民問題などを想起させるので、そうした考え事をする材料にもなった。優れたフィクションは恐るべき力を持つ。
その他、トリヴィアルなこととしては、クシャナが意外と少ない手勢で戦っていたのだなということがラストシーンの砂漠の宇宙船の廃墟近くの攻防でわかった。風の谷の視点からするとトルメキアは恐ろしい国に思えるんだけれど、当のクシャナはその王国における傍流として苦労してるんだよな、と。そう思うとこのふたりのお姫様の行く末があらためて気になってくるわけだが、それについては漫画版のお楽しみ。言わずもがなのことではあるけれど、タイトルバックのタペストリーの左上がナウシカの象徴、右下がクシャナの象徴であり、このふたりの主人公をじっくり追っていけることが漫画版の楽しみのひとつである。再読しよう。
もののけ姫
1997年公開。『新世紀エヴァンゲリオン劇場版 Air/まごころを、君に』と同じ年の同じ夏の公開で、私はこの二作品を盛岡で立て続けに観た。立ち見券しか手に入れられず、足を棒にしながら、熱気が充満する会場で夢中になって観たのをよく憶えている。
まずあらためて、美術と音楽が本当に素晴らしかった。単に良いというだけでなく、室町時代の日本という舞台を普遍的なファンタジー世界にまで押し上げているのは、この美術と音楽があってこそだと思った。建築物や構造物を出しづらい山の中で独特の世界観を演出するには、当たり前だが森や植物をどう描くかが非常に重要。その難題をねじ伏せたアイデアとディテールが、見ていて実に楽しかった。
そして今回、一番の発見だったのは、アシタカの内面が一瞬だけ露呈するシーン。石火矢に撃たれたアシタカが、サンによってシシ神の森に連れて行かれ、そこで癒しの奇跡が起こる。サンは干し肉を咀嚼してアシタカに食べさせ、目を覚ましたアシタカは弾創が癒されているのに気づく。しかし、シシ神の奇跡をもってしても右手の呪いは解けなかったこともまた知る。そのときアシタカは、声もなくはらはらと落涙する。このシーンに以前は注意を払っていなかった。しかしあらためて観ると、これ以外のシーンでは内面の表出が徹底して避けられているため、一見するとひたすらに強く勇敢なキャラクターに見えてしまう。しかしそんなことはないよな、つらいよな、ということが伝わってきて胸がひしゃげそうになった。
また、自分の民俗学や中世史への興味のルーツはここにあったんだな、ということを再認識し、17歳の時には読み取れなかったものがいろいろとわかるようになっていたのが楽しかった。たとえば。冒頭に出てくるタタリ神は本来イノシシなのにも関わらずまるでクモのような姿形をしているが、あれは「土蜘蛛(つちぐも)」というやつである。Wikipediaには「上古の日本において朝廷・天皇に恭順しなかった土豪たちを示す名称である。(中略)近世以後は、蜘蛛のすがたの妖怪であると広くみなされるようになった」とある。ヤマトに追われて山中に生き延びたエミシの一族の村を襲うキャラクターには、このような下敷きがある。
もうひとつ。タイトルバックには「一つ目」の化け物が描かれているが(上の画像を参照のこと)、この一つ目は「鉄」と深く結びついたシンボルである。製鉄や鍛治に関わる人々が片目を失うことが多かったことから、一つ目の化け物は鉄を扱う集団を表すようになった、というのが民俗学の中でポピュラーな定説で、それが使われている。『もののけ姫』は自然の死と再生の話ではなく(映像的にはそういうカタルシスを迎えるが)、太古の森と生物が死に絶えその後に鉄の時代が避けがたくやってくるという話であることが後半になってわかってくるが、それが冒頭で示されている。と、こんな感じでいくらでもトリヴィアルに語ることのできるおそろしい作品である。
そういえば去年、岩手県花巻市で開かれたイーハトーブフェスティバル2019では、宮沢賢治記念館の屋外の公園で『もののけ姫』が上映されていた。見られなかったことが実に悔やまれる。アシタカが生まれ旅立っていった岩手県で、『もののけ姫』を観る体験は素晴らしかっただろうなあ。
千と千尋の神隠し
2001年公開。そのときにも吉祥寺オデオンで観て、子どもたちがキャーキャー声をあげながら楽しんでいたのをよく覚えている。今回、6歳の息子と一緒に観られる機会ができてよかった。息子は、Tシャツの首から顔だけを出し、「千はどこだー」とカオナシのマネをして遊ぶようになった。
これだけポピュラーな作品についてあらためて語ることもないような気がしていたが、このタイトルバックを観て不思議に思わないだろうか。何の変哲もない、山の斜面に建てられた住宅街の絵であり、ご存知のように千尋一家が引っ越していく場所である。その映画を象徴するタイトルバックというと湯屋やカオナシや湯婆婆やハクなどが何らかの形で描かれていそうな気がするが、それはポスターのイメージであって、あらためてそれが実に地味な風景であることに気づく。しかし、そこにはもちろん意味がある。『風の谷のナウシカ』や『もののけ姫』でもそうであったように。
映画の冒頭、千尋はこの景色を見て何を思っただろうか。引っ越しに対して能天気にに見える両親に対して、住み慣れた町や友人たちとの別れに明らかに打ちのめされている千尋である。決しておもしろい景色には映らなかっただろう。
しかしその後、霧のむこうのふしぎな町に迷い込んだ千尋は、コハク川にずっと見守られていたことを知り、その肯定を通じて自らの名前を取り戻し、元の世界に帰還する。そのとき、タイトルバックに描かれたこの景色は帰還した千尋の目にどう写っただろうか。無条件の肯定、コンフォートゾーン、心理的安全性。どういう言葉を使ってもいいが、きっと、見知らぬ世界に飛び込んでいける勇気を持てた千尋には、過去とは違った景色に見えていることだろう。
つまりこの作品は、圧倒的なビジュアルの魅力に惑わされずにその本筋を追ってみると、実に地味ながらも万人を温めるようなビルドゥングスロマンとなっている。日本全国どこにでもあるような山の斜面の住宅地をタイトルバックに選ぶことには、やはり意味がある。みたいなことを思った。
長くなってしまった。
しかし、こうして劇場で真剣に鑑賞し直すのは実におもしろいですね。たとえば、『火垂るの墓』『紅の豚』『コクリコ坂から』『風立ちぬ』の4本をリバイバル上映してはどうか、あるいは、『パンダコパンダ』『となりのトトロ』『平成たぬき合戦ぽんぽこ』『崖の上のポニョ』の4本ではどうか。共通するテーマについて考えながら、そんなことを思った。