偏愛するコンテンツについて、ビジネスや文化の観点から共通するパターンを見つけ出すこと。複数のものごとをひとつのことで説明できる着想にワクワクすること。それがメディアヌップでやりたいことです。
20年にわたってUGCのプラットフォームを開発・運営してきた経験と、個人としても小説などの創作を行ってきた視点からお届けします。
デジタル世界では複製コストはゼロという嘘
間違った主張に正しい反論をすることは世のためになることではあるけれど、間違った主張の数があまりに多いと、正しい反論もひっくるめてそのどちらにも耳を貸す余裕がなくなってくる。結果、無視するようになる。でも、その議論自体が話題になった場合は別である。そこには私たちの関心を引く何かがあり、メタ的に言及する理由になる。
話題になっているのはこの記事。
NFTとメタバースについて思うこと(2022年2月11日)
この記事のうち、冒頭にも述べたとおり間違った主張に対する反論はここではとりあげない。具体的には「メタバースをNFTの価値の裏付けとすること」と「非中央集権的な未来の話」である。メタバースはNFTの使い途の一部でしかなく、Web3によって完璧な非中央集権的な社会が実現するなんてこともない。そのため、反論が仮に正しかったとしても、NFTにはなんのダメージもないのであるからして、スキップするに限る。
一方、議論をメタ的にとりあげる価値を感じたのは、この部分である。
電子の世界はノーコストでコピーが可能なのが利点なのにそれをわざわざ殺して不便にした世界でないと出せない価値はない。
この問題について、Media × Techに寄稿した「Web3はコンテンツの黄金時代か、それとも金ぴか時代か?」でこんなことを書いた。引用が多くなるが自分の原稿なのでご容赦いただいて、まずはエドワード・スノーデン氏の言葉から。イーサリアム共同創業者のギャビン・ウッド氏との対談で次のように苦言を呈した。
昔はお店に行って ゲームを購入していました。ゲームを所有し、ゲームをプレイする、それだけのことです。その後、サブスクリプションモデルのゲームが出てきます。ゲームを購入して、月々の料金を支払う、というようなものです。今、彼らがしていることの最終的な結果は、ポスト希少性の領域に人工的な希少性の感覚を注入していることです。これは、本質的に反社会的な衝動だと思います。(中略)このようなポスト希少性ドメインに、一部の投資家層の利益のためだけに、人工的な、不必要な希少性を注入することから、発展の弧を曲げようとしているのではないでしょうか。(Snowden, 2021)
それに対して、私はこんな風に書いた。
スノーデン氏がこのときイメージしているのは、疲れて家に帰ってきてゲームで息抜きしようとしているユーザーなので、そう言いたくなる気持ちもわかる。しかし、話をコンテンツ全般に広げてみると、希少性のまったくない世界が碌なものにならなかった現実に思い至る。すべてのコンテンツが限りなく安価になると、まずアテンション・エコノミーが生じる。それを勝ち抜いた帝国が監視資本主義を完成させる。やがて世界は、誰でも手に入れられるが誰も欲しくないものであふれるようになり、ユーザー体験が貧しくなっていくのを誰にも止められなくなる。それが今おこっていることだ。
ここから議論を掘り下げてみたい。
私の考えでは「ノーコストでコピーが可能」という議論の土台にそもそも穴がある。
もちろん、手元のクライアントで何かのデータを複製するのは、ごくごくわずかな電気代さえ無視してしまえばなんの費用もかかっていないと言えるだろう。ところが、ウェブを提供しているサーバーで何かのデータを複製し、しかもそれをいつでも利用可能な状況で提供し続けるには、コストがかかる。単に電気代のことを言っているのではない。サービスを提供する企業間の競争が、技術者の採用やマーケティングにおけるコストを生じさせるのである。コストは「見えない化」されているだけなのである。
このことをマシュー・ハインドマンは『デジタルエコノミーの罠』のなかで次のように指摘する。
インターネットが「ポスト工業」技術だという話は嫌というほど聞かされてきた。オンラインでは、放送塔や印刷機や似たような資本設備に対して何百万ドルも投資する必要はないとされていた。印刷メディアや放送メディアを均質化した工業経済学が消えたので、参入障壁は下がり、観衆たちは一斉に拡大したのだ、というのがそのお話だ。
ダレスのグーグル社データセンターは、このおとぎ話を真っ向から否定するものだ。グーグルの施設は、まさに見た目どおりの代物だ。工場であり、デジタル溶融炉であり、ちがいは精錬しているのが鉱石ではなく情報だというだけだ。グーグルのデータ工場は、かつてNBCにとって放送設備が重要だったのと同じくらい、グーグルにとって不可欠なものなのだ。このようにデジタル時代に重工業時代の経済がしつこく残っているなら、ちょっと立ち止まって考えてみるべきだ。(Hindman, 2018)
このような見えないコストを負担し、いわば「人工的な夥多性」を作り出しているのが、GoogleやMetaといったプラットフォーム企業だ。つまりユーザーは本来なら有償なものを無償で利用しているわけで、その代価となっているのが個人情報、代償として生じているのがフィルターバブル、エコーチェンバー、監視資本主義などなどであり、聞けばもう耳にタコができるようなお決まりの問題群だ。
経済学者のハーバート・サイモンは、1960年代にはもう情報過多から生じる問題について次のように書いている。
情報リッチな世界では、情報の豊富さは何か別のものの枯渇を意味する。その情報が消費するものが何であれ、それが希少となるのだ。情報が何を消費するかは、まあすぐにわかるだろう。それは受け手の関心を消費する。つまり情報が豊富になると、関心が乏しくなり、消費しそうな情報源の過剰の中で、その関心を効率的に配分する必要が生じる。(Simon, 1971)
これについては、今日耳慣れた言葉で簡単に説明ができる。アテンションエコノミーである。
話の流れを振り返ろう。まず、デジタルの世界においても、複製や配布にはコストがかかる。大手プラットフォームがそれを負担することで、コストは見えない化され、人工的な夥多性が作られている。そこにアテンションエコノミーが生じる。それは、検索エンジンに最適化されるかソーシャルメディアでバズるかしないとコンテンツの存在価値がないかのような極端な世界であり、もっと簡単にいえば「PV至上主義から脱却したいなあ」と十年一日のようにぼやかれる世界のことである。
寄稿した原稿の繰り返しになるが、やがて世界は誰でも手に入れられるが誰も欲しくないものであふれるようになり、ユーザー体験が貧しくなっていくのを誰にも止められなくなる。それが今おこっていることだ。
議論の土台をこのように認識してみると、デジタル世界に人工的な希少性を導入するNFTのアイデアと実装は、無償なものをわざわざ有償にするのではなくて、見えない化されたコストを再び見える化するものとして捉えることはできないだろうか? NFTには、アテンション・エコノミー偏重の社会にポジティブなインパクトをもたらす可能性がありはしないだろうか?
もっと言えば、スノーデン氏は「一部の投資家層の利益のためだけに、不必要な希少性を注入する」ことを問題視しているが、反対に「多数の利用者の利益のために、必要な希少性を注入する」ことになればそれはよいわけである。それはあり得るのだろうか? 私が思い浮かぶ事例は、マジック・ザ・ギャザリングというトレーディングカードゲーム(TCG)である。
マジック・ザ・ギャザリングに学ぶ希少性の生態系
1993年に発売された「マジック・ザ・ギャザリング(MTG)」というTCGは、発売してすぐ世に稀なレベルの爆発的プロダクトマーケットフィットを起こした。それから現在まで30年近く世界中で遊ばれているのはもちろん、MTGの生み出したTCGというジャンルからは「ポケモンカード」や「遊戯王」といったビッグタイトルが生まれ、それらも今なお遊ばれ続けている。そのTCGというビジネスモデルとエコシステムのなかに、学ぶべきところがあると思うのだ。
メーカーが発売するのは、言ってしまえばただの紙である。それに、なんらかの能力や特性が付与されて、希少性つまりレアリティが設定されている。それによってあるカードは高くなるが、あるカードは安くなる。
それに対して、「遊ぶのにお金がかかりすぎる」と批判する声は昔からあるし、そのビジネスモデルが「まるで紙幣を刷っているようだ」と揶揄されることもある。しかしそれは一面的な見方である。むしろ逆である。
レアリティが設定されていることによって、一部のカードは安くなるのである。たとえば、1パック10枚のうち1枚しか封入されていないレアカードを十分な数だけ手に入れようとすると、その過程で10枚のうち9枚も封入されているコモンカードが大量に出現することになる。ひとりのプレイヤーが同じカードをあまりたくさん持っていてもしょうがないから、それらはセカンドマーケットに流されることになり、結果的に安く市場に出回る。
ポイントは、このレアリティが必ずしもカードの能力や特性と連動していないところにある。つまり希少で弱いカードもあれば、ありふれていて強いカードもある。そうすると、手に入りづらい高額がカードが存在する一方で、ほとんど無料で手に入れられる強力カードもまた存在し、それがプレイヤーの裾野を広げていくようになるのである。前者のカードの存在はよく知られていて良い意味でも悪い意味でも話題になるが、レアリティの導入によって後者のカードがポジティブな役割を果たすことにはあまり注意が払われない。私が指摘したいのはまずその点である。
こうしたエコシステムを理解するためには、TCGのセカンドマーケットが果たしている役割を理解する必要がある。なにしろ名前にすでに「トレード」と入っているくらいだ。セカンドマーケットの重要性は言わずもがなである。
まず一番原始的な方法は、個人間のトレードである。欲しいカードと要らないカードを合意の上で交換するやり方だ。次に、それをヤフオクやメルカリなどで行う方法。ここではカードとお金を交換する。最後に、カードショップがパックを剥いてシングルカードとしてばらばらに販売し、プレイヤーはそれを1枚1枚選んで買う方法。ここまでくると何がトレードなのかわかりづらいが、カードショップはカードの買取も行っているため、プレイヤーは持ち込んだカードを売って一度お金に換え、そこから目当てのカードを買うことができる。広い意味でのトレードは成立しているのである。
プレイヤーは、手に入れたカードをトレードを通じてやりとりしながら、少しずつ自分の欲しいカードを集めていくのである。なかでも、カードショップが規模的にも性質的にも重要な役割を果たしている。カードショップのビジネスの肝は、簡単に言うと、数が少なくて高額なカードでしっかり利益を出しながら、数が多くて安価なカードで新しいプレイヤーを増やしていくこのバランスのなかにある。ここの構造が、一部の富裕層の楽しみのためだけでなく、多数の利用者の利益になっているところなのである。
これを理解して「遊ぶのにお金がかかりすぎる」という声を思い出してみると、それが物事の一面しか見ていないことがわかる。
レアリティが存在しないと、能力と特性による人気投票によって価格が決まるため、一部のカードの高騰はおさえられるが、カードが安く手に入れられることもなくなる。問題はそれだけではない。誰もがすべてのカードを手に入れられる状況というのは、簡単に言ってしまえば、おもしろみに欠けるのである。TCGは囲碁や将棋とは違う。勝ち負けを競うゲームでありながら、愛着のあるカードを使いたいというファッション性も持ち合わせているからこのような心理が生じる。レアリティが存在しないとゲームの魅力が落ち、セカンドマーケットを成立させていたカードショップのビジネスも立ち行かなくなり、結果、そのゲームは衰退する。つまり、そもそも遊べなくなるのである。
次の論点に進もう。現代のカードショップは、単にカードを売買するだけでなく、そのTCGタイトルに付加価値をつけるようなこともやってのけているのである。
おそらく一般的には、ゲームを開発するメーカーがいて、それを遊ぶプレイヤーがいる、という単純な図式を想像されるだろう。つまりゲームの価値はメーカーが決めているという捉え方だ。ところがMTGは違う(「TCGは」と言いたいところですがポケカや遊戯王のことは詳しくないので「MTGは」とします)。カードを発売するのはあくまでメーカーだけだが、それを使った新しい遊び方を支援したり、ときには新しい遊び方の開発まで行って、そのゲームタイトルを盛り上げるのである。そうすると何が起こるか。まず、新しい遊び方によって注目されるカードが異なるので、その遊び方をする人が増えれば増えるほど、カードの価値が上昇する。これは店側の視点だが、プレイヤーの視点からすると、昔は安かったカードがいつの間にか高くなっていて得をした、という体験が起こる。つまりメーカーだけがカードの価値が支えているのではなく、プレイヤーとカードショップによっても支えられているのである。極端な話をすれば、もしメーカーが新しいカードの印刷をストップしても、MTGはプレイヤーとカードショップのコミュニティによって遊ばれ続け、カードの価値も維持される。どころか、供給がストップすればますます値上がりするだろう。
これを理解すると「まるで紙幣を刷っているようだ」という批判も、ちょっとピントがずれているように感じられないだろうか。紙幣はfungibleな(代替性がある)ものだが、能力や特性にレアリティが設定されたカードはnon-fungileな(非代替性がある)ものである。non-fungileなカードを刷って、それを買ってもらうところからTCGというゲームは始まる。プレイヤーは自ずと、それらnon-fugibleなもの価値があがるように振る舞うし、その価値が最大化するようにトレードを試みる。仲間を増やし、コミュニティをつくり、知恵と技術を磨き、長く大事に保有し、もし手放すときにも安売りはしない。このような心理とダイナミズムがTCGのエコシステムの原動力になっている。fungibleな紙幣だったらこうはならない。
空想のNFTと現実のNFT
最初の話に戻ろう。「電子の世界はノーコストでコピーが可能なのが利点なのにそれをわざわざ殺して不便にした世界」に対する批判の話だった。
デジタル世界に人工的な希少性を導入するNFTのアイデアと実装は、無償なものをわざわざ有償にするのではなくて、見えない化されたコストを再び見える化するものとして捉えられることを指摘した。そして、MTGというゲームを例にとって、レアリティがあることでむしろ初心者への間口が広がる例があることを紹介した。また、オーナーシップが生じる仕組みの上では、人はそれをコストではなく資産と捉え、資産を有効に使うためにコミュニティやマーケットに積極的に働きかけるようになる。そうした人々があつまることによってさらに価値が安定、あるいは上昇する。
もちろんこれは、NFTという新しいものを、MTGという古いもので説明しようとしたものに過ぎない。時間が経ってみれば的はずれだったということになるのかもしれない。ただ、コストは単に見えない化されているだけであるということや、希少性が間口を広げる事例があることを知ってもらいたかったのである。
NFTは、いうなれば「紙」とか「Web」みたいなものである。紙にはいたずら書きもできるし、記事を印刷して各戸に配布する新聞という事業にすることもできる。Webで静的なホームページを作ることもできるし、Facebookのような個人情報収集機械として巨大な広告ビジネスを展開することもできる。紙もWebもいまではその特性がよく理解されているので、用途に応じてうまく使い分けられている。NFTも紙やWebと同様に何でも盛れる器なのだが、その用途が定まってなくて空想だけが大きくなっていってる。
もちろん、NFTならではの特性を生かした成功事例は人気を集めている。その一方で、NFTである必要もないようなつまらないものが大々的にプレスリリースされ、数の上ではそちらが優勢である。いまは空想のNFTを夢見る人と、そのデタラメさに腹を立てる人とで、大変騒がしい。現実のNFTはもっと単純なことしかできない。個数の概念を持ち込めること。ユーザーが所有していることによって異なるプラットフォームにも持ち込めること。あと数年すれば、著作権がどうとか、非中央集権がどうとかいった話は「なんでみんなあんなことを夢見たり腹を立てたりしてたんだろう」と思うようになるに違いない。一方、希少性やプラットフォーム互換性が何をもたらすかについては、まだわからない。その現実のNFTの行方こそが最大の関心事だ。
おまけ: 僕らのネクロマンシーとNFT
2018年に出版した小説『僕らのネクロマンシー』は、2016年から2017年にかけて書きました。そのなかに、NFTが登場するエピソードがあります。
阿久津というキャラクターが登場し、デジタルデータが希少性を持つことを説明します。それに対して主人公の代々木犬助は、次のような反感を覚えます。
なるほどカードとはつまり有価証券のようなもので、それが暗号通貨のように運用されているというわけだ。そう思ってみると、なんだか鼻白むような気になった。大量の情報が世にあふれて価値が薄まった時代の次は、知識そのものには誰も興味を示さず、カード化された知識のコレクションと所有権のトランザクションだけが注目される時代というわけだ。
代々木犬助という主人公は、この小説世界の中ではいささか古風な価値観を持つ人物として描いています。舞台が近未来なので、私たちが共感しやすい現代の価値観を描くとちょうどそれが遅れている感じになる、という構造です。
もちろん、これは私の考えをキャラクターに言わせているわけではありません。そんなことだったらTwitterにでも何にでも書けばよい話です。そうではなくて、何人もの登場人物を通して価値観が衝突させ、思いもよらなかった結論にたどり着くことを目的としています。データとは何か、コンテンツとは何か、といったことを考えるお供として、ご興味ある方はお求めください。
以下に、該当する第22話をおまけとして掲載します。
執筆ノート
この記事を書くにあたっては、Web3 Quick Tourという勉強会にご参加いただいたみなさんとの議論を土台にさせていただきました。特にカイさんには多くの刺激をいただきました。とりあえずこれが、いま私が知っていることと思いついたことのすべてです。