ささきる(@sasakill)が気になったニュースにコメントを添えて、1週間分まとめてお送りします。ちなみに、今週とりあげ「なかった」大きな話題は「月曜日のたわわ」と「Twitter買収か」の2本です。
今週のナイン・ストーリーズ
2022年4月20日〜2022年4月26日
1. 戦争の下、国家は個人を領有する 私は自由を信仰する 李琴峰さん / 朝日新聞デジタル
これを書いたら笑われるんじゃないかと思うのですが、私は自分のことを「小説家」だと思っています。当然、それで食えているわけでもなく、それだけをやり続けているわけでもありませんから、職業ではありません。でも、いまから約十年前、最初の作品を書き上げてからというもの、あらゆる物事を「小説として表現するにはどうすればいいか」という目線で見るようになり、それが今日までずっと続いています。小説を書き上げるという喜びがあまりにも強烈で、思考のクセがそのように整列してしまったんです。何を見ても小説のことを考えるし、何年かに一度だけ書き上げる小説を北極星にして生きてます。そのようにして生きている人間をなんと呼ぶかというと、やはり小説家としか呼べないと思うわけです。だからなのか、同じ様な考え方をする人には対して私は無限に近いようなシンパシーと敬意を感じます。普段あまり連絡を取り合うことのない小説を書き続けている友人たちに対しても、会ったことのない人たちであってもです。
というわけで李琴峰さんのインタビューから一部ご紹介したいと思います。
自由を信仰するのは、国家を信仰するより遥(はる)かに難しい。今でも、私の財布の中には身分証明書が何枚も入っているし、私という人間は特定の番号と結び付けられ管理されている。身分証明書がなければ、私は自分が自分であることすら証明できなくなる。国家による個人の領有は、端的に事実として存在している。個人は生まれた瞬間からそこに絡め取られ、完全には自由になり得ない。そもそも生まれてくるということも自分で決めたわけではない。
それでも、自由であろうとすることが大切だ。私は小説書きである。小説とは即(すなわ)ち、小さな説(かたり)だ。民族の大義とか、祖国の偉大なる復興とか、それらの大きな物語とは一線を画す、個人に属する小さな語りを模索したり、編み出したりするのが私の仕事だ。小説に出てくる個人が大きな物語に絡め取られることはあっても、小説そのもの、そして小説を書くという行為は決して絡め取られてはならない。
2. 遠野の方言「ばふっと」
ポッドキャストで「#012 まやまやビジネス用語の世界」という評判のよい回がありました。そこで話したのは、「ビジネス用語でも方言でも、意思と責任のあいまいなところにスラングが発達する」ということでした。そのバリエーションを遠野の方言からもうひとつ発見しました。「ばふっと」です。意味としては「ざっくり」とか「ふわっと」という感じですかね。ポッドキャストを未聴の方は連休中にぜひ。
3. The rise and fall of Crypro culture
著者のAndre Cronjeさんは著名なDeFiの開発者で、3月に暗号資産業界からの引退を宣言したばかりです。その彼が、4月18日に「暗号文化の興亡」というタイトルの記事を公開して話題になりました。それは、暗号精神(Crypto Ethos)の持ち主には思慮深い考えに受け取れる一方、暗号文化(Crypto Culture)の支持者からは裏切り者に見える、そんな文章だったように思います。
その定義が文中にあります。
暗号精神は、自己主権、自己監護、自己エンパワーメントのような概念です。暗号文化は、富、資格、豊かさ、自我などの概念です。
暗号精神と暗号文化。このふたつの言葉が非常に便利だなと思って紹介してみました。
ちなみに、『テンセント―知られざる中国デジタル革命トップランナーの全貌』(著・呉暁波)では、2000年代の中国において「インターネット精神」抜きの「インターネット文化」だけが急速に立ち上がった歴史が記述されています。つまり、カウンターカルチャーとしてのインターネットという土台なしに、金儲けの手段としてのインターネットだけが広まった、ということなんですが、それを良い悪いの二項対立で説明できないところが歴史のおもしろさです(e.g. ニコニコ動画をパクっていまや元祖よりも価値の高いBiliBili動画、世界中のプラットフォームがその優れたやり方を真似したTikTok)。だからきっといまの暗号精神と暗号文化をめぐる議論も、「暗号精神だけが尊く、それだけが本物なんだ」ということにはきっとなりません。もっともいかがわしいものの中から次の本物が誕生することを思えば、それらが混じり合った混沌のなかに目を凝らそうとするスタンスが大事なんだろうなと思います。
4.「砂漠で水を売れ」スマートニュース 原田 朋氏の自らが切り開くコピーライターの新しい選択肢
スマニュー社内でいつも楽しい会話相手になってくれる原田さんのインタビュー。私が「言葉」から何かを発想するのを一緒になって喜んでくれる人物です。
これまではプロダクトが先にあって言葉(=広告)がある構図だったけれども、まず志や魂などの言葉をベースに、プロダクトづくりが行われ、最終的にまた言葉(=広告)に繋がる。そんな構図を成り立たせたいと考えています。
こんなことを言われたら居ても立ってもいられなくなって、考えたばかりのサービスの企画書を、頼まれてないのに送りつけてしまいました。
5. 開催者も読み間違うWeb3への熱狂——テックに加え、メディアやクリエイティブ層が集まった「SXSW2022」リポート
注目を促したいのはWater & Musicの事例が紹介されている後半。よく読むと、そして元のサイトを訪れてそこで行われていることを研究すると、Web2やWeb3と呼ばれるものが実は地続きで、不断の工夫がおこなれていることに気づくと思います。実に刺激的です。Water & Musicについては「Start Here」のページから読むとよくわかります。
6. 遠野イラストマップ
柳田國男の『遠野物語』をおもしろがる人々という全4話のポッドキャストを作ったあとに、あたらしいプレーヤーが登場しました。遠野に移住したグラフィックデザイナーの阿部さんです。
イラストを拡大すると、どのエピソードがどのあたりのことなのか視覚的にわかるようになっています。このマップ、なんとか手に入れたいなあ。
7. Proof of X|NFT as New Media Art
4月22日から5月1日まで開催しているメディアアートとしてのNFTの展示。その初日に行ってきました。授かった霊感を言葉にするのは難しいのですが、2点だけ言及したいと思います。
ひとつ目はToshiさんによる「OpenTransfer」。ウォレットの中のNFTを誰でも移動(トランスファー)できてしまうという作品です。しかし、その所有者が誰かということは変わらないので、他者のウォレットの中にあるのに自分のものである、という状態になります。NFTとしては変わったことに思えますが、しかしこれは、現実ではよくあることですよね。友人の家に遊びに行って本を借りてくる。その本は自分の家にあるのですが、持ち主は引き続きその友人である。というようなことですね。この考え方や実装を使えば、NFTを通じた本の貸し借りができるかもしれないと思い、自分のプロジェクトに生かせないか頭をめぐらせています。
もうひとつは、会場で配られているブックレットに掲載されているhasaquiさんの批評から受けた霊感です。
該当部分は以下の通りですが、簡単に言うと、いまのDecentralizedは人間中心主義の考え方の枠に収まったものでしかなく、非人間(たとえば植物や動物などを想像してみましょう)も含めた世界で人間を一要素に落としたうえで本当の分散を考えたらどうなるか、という考えを誘惑するものです。
これは特別あたらしい考え方というわけではなく、よくある流派なんだそうですが、「植林した木が自らDeFiし続けたらどうなるか」みたいなことを健さん(スマートニュースのCEO)と話したばかりだったので、「ここにも出てきた!」と驚いたのでした。そういう射程でものを考えるのって、楽しいですよね。
8. Searching for the Notorious Celebrity Book Styliss - New York Times
ファッションとしての本についての文章。冒頭のリード文には次のような文章が並んでいます。
パーソナルブランディングの名のもとに、インフルエンサーは誰かにお金を払って、自分を読者のように見せているかもしれません。でも、小説はハンドバッグよりも尊敬に値するのでしょうか?
くねくねとした長文なので読みづらいのですが、ファッションや伊達として本を扱う人々と、それを批判する人々の意見が紹介されています。「小説はハンドバッグよりも尊敬に値するのか?」。私の意見は絶対的にイエスです。本のファッション性は、本の中身と分かち難い本質だと思います。
その考えを、「Web3はコンテンツの黄金時代か、それとも金ぴか時代か?」にも示しましたので、ここに引用します。
部屋を温めるエネルギーが石油や電気に変わってから、自宅に暖炉を構えるのはファッションになった。同様に、情報の取得という機能をデジタルメディアに譲ってから、立派な本棚をしつらえるのはファッションになった。それが悪いと言いたいのではない。逆である。暖房やインプットという機能が本質であるかのように錯覚するが、モノが纏っているファッション性もまた、欠かせない本質なのである。薪をくべない暖炉が部屋を温めることはないが、それは所有者の別の何かを満たすのだ。
なぜこのような例え話をするのかというと、Web3における情報は、このファッション性によっておもしろい展開を迎えるのではないかと思うからである。情報はフリーになりたがるが、ファッションはそうではない。希少性が肝心だからだ。だから人々は、豪華な革装の本や、背表紙に金文字が打ち込まれた百科事典を所有したがったのである。だとすれば、新しい方法でそれに応えることはできないか? Mirrorめぐる一連のサービスを体験すると、そうした可能性が思い浮かんでくる。
本のファッション性について考えたプロジェクトとして、『僕らのネクロマンシー』のデジタル版を今年ドロップしようと思っています。ご期待ください。
9. We can’t stop playing video games at work
ゲーム文化が企業のなかに入り込んでいることを紹介する記事です。オフィスにピンポン台やビリヤード台があったり、週末のゴルフの予定を話し合うことが(ある職場においては)日常の光景であるように、ゲーム文化もそこに居場所を見つけています。
自分がこの話をするとき、「野球」と「野球文化」のたとえ話をよくします。「野球」は、野球をプレーすることそのもの。キャッチボールやバッティングセンターに行くこともそれに含めてもいいかもしれません。対して「野球文化」は、雑談のネタとしてイチローや大谷や新庄について話すことであったり、なにかのたとえとして「この企画は三振かホームランのどっちかだ」という表現をすることであったり、野球をプレーしない人にも浸透しているものごとや考え方を指します。
この定義をスライドさせて「ゲーム」と「ゲーム文化」にも同様の定義をあてはめると、いまはまずゲームがどんどんと社会のなかに普及し、続いて、ゲーム文化がゲームをしない人にとっても広く浸透し、まもなくすべてを飲み込もうかというタイミングなんだと思っています。ゲームをしない人にとっては意外かもしれませんが、アプリの「ダークモード」もゲーム文化の一環なんですよね。気づくと、かなりのことがゲーム文化に飲み込まれています。
あとがき
メディアヌップ読者のためのNFTをPOAPで発行しようとしているのですが、申請が思うように通らず足踏みしています。どうやら、「どのように配るか」ということを丁寧に説明しないといけないようなんですよね。それがPOAPの価値を高めることになり、また、コミュニティの熱量を高めることになるというわけで。なるほどよく運営されているなと感心したところです。
発行をお待ちのみなさん、もう少々ご辛抱ください。
SWSXレポートのご紹介ありがとうございます!本当にWater&MusicはWeb3をうまくつかってるなあと思います。Proof of Xも展覧会は見れませんでしたが、テキストはダウンロードして隅から隅まで読みました。アートの文脈でもすごくよくまとまっていて、とても感激しました。そして、実はSWSXレポートをMirrorでNFTにミントしたんですが、なんとそのエディション1をhasaquiさんが買ってくれたんです!!!