ささきる(@sasakill)が気になったニュースにコメントを添えて、週に一度の目安でお送りします。今週は、いつもとは違った趣向でのお届けです。
今週のネクロ問答
2022年3月2日〜2022年3月8日
──こんばんは。今週はどうでしたか。
先週のナイン・ストーリーズにちょっと力が入っちゃったんで、なんか疲れてて。
──うそ、引用ばっかりだったでしょ。
そうなんだけど、ポッドキャストを作って、ブログを書いて、発表予定のプロダクトやサービスを進めて、その間もちろん仕事もして、そのうえさらに一週間のニュースを振り返って文脈をつけて流れのある9本のリンクに編集するのって、労力がいるのよ。最初は単なるリンク集だったんだけど、凝っちゃって。
──好きでやってることじゃない。
そう。だから好きにやることにして、今週は対話形式でやってみようかって。
──なんでまた。
そもそもさ、このニュースレターの屋号を「メディアヌップ」にする前は、「Dialogue with Necromancer」って名乗ってたのよ。降霊術師との対話。
──気持ち悪いねえ。
「Hello darkness, my old friend」つって。まあいいのよそれは。好きになってもらおうとかバズろうとか思ってないんだから。
──で、それはどういう意味だったわけ。
なにかあると、いつも頭の中で会話するじゃない。こうやってあなたと話してるやつのことね。んで、大抵の場合はそれだけで終わっちゃうんだけど、たまにやる気のあるときなんかには書き言葉にあらためて文章の体にするでしょ。それも、いかにも一人の人間が書いたようにしてさ。でも、実はそれってダイアローグなんだよっていう白状だね。
──ふーん。じゃあ降霊術師ってのは。
あなたはさ、いろんな時代のいろんな人の考えを借りてくるでしょ。
──あなたには身体があるけど、おれにはないからね。誰かの考えを借りないとしゃべれないし、しゃべったあとはどっかにいっちゃうじゃない。
それよ。それが降霊術みたいだなって。
──だから「ネクロ問答」だと。
そう。
──若林恵さんの「だえん問答」をまねして。
Quartz Japanのコラムのね。真面目な読者ではないんだけど、知ってはいますし、本も持ってます。
──まねですね。
まあそうなるか。でも、頭の中の会話は何十年も前からやってたよ?
──それはみんなそうなんじゃないの?
どうなんだろうね。そういえば訊いたことなかったな。
──こんな面倒な手続きをしてまで話したいのはなんですか。
ユヴァル・ノア・ハラリ。
──『サピエンス全史』『ホモ・デウス』あと『21 Lessons』のね。何か気に入らなかったですか。
2022年2月28日にガーディアン紙に寄稿した「Why Vladimir Putin has already lost this war」という記事があるんだけど、その日本語訳が3月4日に公開されたのね。一読して、「ああ、これはウケるんだろうな」と思った。と同時に、自分はこんなナイーブな話には頷けないなと思ったの。
──ナイーブって、悪いこと?
世間知らずで、繊細で、お人好し。そうだねえ、良い意味だと解釈してもらうには、かなりひねりがいるだろうね。
──どこがひっかかりましたか。
ハラリの本のなかに繰り返しでてくる「虚構」や「物語」という言葉があるでしょ。それが今回、こんな風に使われているんだよね。
突き詰めれば、国家はみな物語の上に築かれている。ウクライナの人々が、この先の暗い日々だけではなく、今後何十年も何世代も語り続けることになる物語が、日を追って積み重なっている。首都を逃れることを拒絶し、自分は脱出の便宜ではなく武器弾薬を必要としているとアメリカに訴える大統領。黒海に浮かぶズミイヌイ島で降伏を勧告するロシアの軍艦に向かって「くたばれ」と叫んだ兵士たち。ロシアの戦車隊の進路に座り込んで止めようとした民間人たち。これこそが国家を形作るものだ。長い目で見れば、こうした物語のほうが戦車よりも大きな価値を持つ。
国民国家がさ、その統合のための虚構や物語といった「ナラティブ」を必要とするってのはよく知られた話でしょ。
──普通それを「歴史」とか呼ぶけどね。
そう。そこには虚構性が含まれるわけだけど一旦それはいいとして、そのナラティブづくりへの参加が誰によって企まれているかについては注意が払われるべきだと思うわけだ。
──どうぞ続けて。
80年代の「物語消費論」ってのは、それを言い出した大塚英志さんが後に「単にマーケティングの言葉に過ぎなかった」と自嘲気味に振り返っているけれど、時代背景には広告代理店の存在があったわけだよね。
──うーん、でも、そうじゃないものもあったでしょう。というか、そうじゃないところが発端でしょう? ユーザーというと今っぽ過ぎるし、消費者とか生活者っていうと広告代理店っぽ過ぎるし、ちょうどいい言葉がわからないけど、大衆とかそういう。
そうだね。ビックリマンシールだってD&Dだって、それを使って物語をつくっていったのは自分たちのほうだという感覚がある。だからこそだよ。そうしたナラティブづくりが、いつの間にか誰かに企まれたものにすり替わっていくとしたら、それには注意を払いたいじゃない。
──他には?
テン年代から現在に至るまででいうと、「物語労働論」とでも呼んだらいいのかな、クリエイターエコノミーという甘い言葉がギグワーカーの量産を肯定する構造は、プラットフォームが企んでいるものだよね。そんでたったいまハラリがナイーブに言及しているのが、国民国家が企むナラティブづくりへの参加という古くて新しい話ということになる。それを「物語国家論」など呼ぼうものならあまりに時代錯誤な字面に目を背けたくなるけど、現にそうしたものがストレートに発露しているんだと思った。
──そのどこが気になるの。
物語の優劣で戦争の勝ち負けを論じるのって、武力の優劣で戦争の勝ち負けを論じるのと大差ないんじゃないかって思うんだよ。ハラリは「こうした物語のほうが戦車よりも大きな価値を持つ」という部分ではっきりと「物語は武器であり戦力だ」と言っていることになると思うんだけど、それって、世界を見る新しい切り口を提案しているように見えて、まったくそうじゃない。武器の代わりに物語を誇っているだけで、「我が軍は優勢である!」という言葉と同じでしょ。
──同じだね。そして同じだからウケるわけね。そう言ってほしい人がいるから。
そう。でも自分はそれに頷けなかったという話でね。自分が当事者じゃない物語の語り手になるときってのは、災厄を単なる数字にしたり、人を勝手に英雄にしたりするよね。何月何日に何人もの人が亡くなりました、とか、誰々は何々のシンボルでした、とか。本質的な問題の解決には貢献しないのに語り手には強烈な快感をもたらす言葉。それには冷静になりたいなと思うの。
──あなたそれ、小説に書いてたよ。
もちろん、覚えてる。でも、校了してから本当に一度も目を通してないから、細かいところは忘れてる。なんて書いたっけな。
──引用しようか。まず、藤原犬田老という人物が、主人公の代々木犬助に向かって、「自分の仲間になれ」と呼びかけるところだね。
「いいかい。ボクらはそれに反抗するんだ。分断をつくることによってだ。あたらしい分断は、あたらしい国をつくるだろう。あたらしい国は、あたらしい文化をつくるだろう。あたらしい文化は、あたらしい物語を必要とするだろう。町おこしなんて小さな話じゃない。これは国つくりなんだ。世界がひとつになろうとするときに、いつのまにか巧妙に隠蔽された被支配者になってしまうことへ抗うための、物語の戦いなんだ。きみにそれを手伝ってほしい。一緒にやってくれないか?」
──そして主人公の代々木犬助は、その後しばらくしてからこう返事をする。
「あなたの言っている物語る力は、互いに真実を主張し合うための騙りだ。物語る力は、もっと普遍的で、個人的なものだよ。夢から覚めた人間が、頭のなかの並列的なイメージを後付けで順序立てて説明するように。起こらなかったことを思い出したり、起こるかもしれないことで都合よく思い出を書き換えるように。僕らは常に、いまここですべてとつながっている。そして同時に、現実に自分を紐付けることもできる。その行き来を可能にしているのが、本当の物語る力なんだよ」
──どう。
思い出した。よく思い出しました。藤原犬田老が言っているのは、行き過ぎたグローバル化への反動で、代々木犬助が言っているのはグローバル対ローカルとはまた違う軸の「パーソナル」。その反対語はパブリックということになると思うんだけど、ふたりの言っていることはずれてるわけだね。小説は答えを出すのが目的じゃないから、すれ違う会話の断層のなかに登場人物を突き落としたまま話は進んでいくんだけど、いやしかし、ここにハラリを登場させたらどうなるかってことだよね。
──ハラリは犬田老にとっては強力な仲間になる人物だろうね。
一方、犬助は「そんなことに物語る力を使うものじゃない」って言うだろうね。
──あなたはどう思うの。
その極端なふたつの考えの間のどこか。その断層で、スペクトラム状にばらばらになってるよ。
──ところでこの小説のタイトルは?
はは。『僕らのネクロマンシー』。あなたとずっとこんな会話をしていたんでした。何年も何年も前から。
──そうでしたね。
──最後に、今週のニュースでもあげましょうか。
じゃあこんな感じで。
The Kind of Smarts You Don’t Find in Young People - The Atlantic
あなたは契約書で戦った経験がありますか?ドワンゴ・川上量生氏が語る「いい法務」の条件 - Business Lawyers
──印象に残ったのは?
いまひとつ選ぶとすると、5番かな。若いときにピークがくる流動的知性と、年経てピークに至る結晶的知性との話。
──それは、結晶的知性を評価しようって話?
そうだね。若いときのひらめきは注意を集めやすいけど、年経て得られる「複雑なアイデアを組み合わせ、何を意味するのかを理解し、それらを他の人と関連付けるためのコツ」のような知性にも注意を向けようとするものだね。でも、自分が思ったのは、年経た人がその結晶的知性を謳うにあたっては、ちゃんとした長さのあるものを作り出してなきゃいけないと思う。
──Twitterじゃなくブログ、TikTokじゃなくYouTubeみたいなことですか。
もちろん長けりゃいいってものじゃないけど、その長さじゃないと伝えられないことを実際にやってはじめて「結晶的知性」といえるんじゃないかなと。
──それもわかるけど、長すぎるのはつらいよ。
そりゃそうだ。もうやめましょう。機会があればまた。
あとがき
神保町の「PASSAGE」という共同書店の棚のオーナーとして「Media Nup Books」を開いています。ラインナップは、現在配信中の「柳田國男の『遠野物語』をおもしろがる人々」に連動させた内容で、民俗学やメディアに関する選書になっています。お近くにお立ち寄りの際は、ぜひのぞいてみてください。
もうひとつ、メディアヌップをきっかけにした近況に変化があり、なんと25年ぶりにソード・ワールドRPGを再開することができました。四半世紀の時間が経っているのに「ただいま!」と叫びたくなるホーム感がありました。頭の一部がずっと興奮し続けています。これについてはまたどこかに書きたいと思います。