偏愛するコンテンツについて、ビジネスや文化の観点から共通するパターンを見つけ出すこと。複数のものごとをひとつのことで説明できる着想にワクワクすること。それがメディアヌップでやりたいことです。
20年にわたってUGCのプラットフォームを開発・運営してきた経験と、個人としても小説などの創作を行ってきた視点からお届けします。
動機のハイジャックとは何か
今日、動機はいとも簡単にハイジャックされるようになった。
自分が体験した感動を伝えるためにはじめたTwitterなのに、いまでは映画を見ながら「どういう感想をつぶやいたらバズるかな」ということばかり考えている。家の中の不要なものを処分するためにはじめたメルカリなのに、いまではあらゆるモノに「いくらで売れるのか」という眼差しを向けている。「好きなことで、生きていく」と決めたはずなのに、いまでは人気が落ちるのが怖くて毎日の更新が苦しいノルマに感じられている。などなど、例を挙げればきりがない。
このようなエピソードは、内発的動機が外発的動機によって取って代わられやがて失われてしまう話として昔からよく知られている。理髪店に石を投げつけるいじめっこに金銭的報酬をあげ、その金額を徐々にさげていくとやがていじめが止むという有名な寓話(実話?)があるが、まさにそのことである。
いまやそれが私たちの生活の隅々にまで充満している。だから私は、自分の内発的動機が失われるのを拒むために、それに「動機のハイジャック」という名前をつけて、ハンドリングしやすい概念に落とし込もうと考えたのである。
それはどのように生じるか
動機のハイジャックという現象を説明する起源として、資本が無限に自己増殖するという資本主義の特徴を指摘したのマルクス(1818年〜1883年)の説明はいまでも有効であるように思う。資本家が労働者を飲み込むのではなく、資本が資本家も労働者も飲み込んでいくということであり、それはいま起こっていることをそのまま説明可能である。
それから百年ほど経って、ドイツの哲学者・ハーバーマス(1929年〜)は損得だけの世界を「システム」と呼び、損得だけではない価値観によって成り立っているところを「生活世界」と呼んだ。システムによって生活世界が飲み込まれることの問題を指摘するためである。
同様の表現を用いながら、真逆のメッセージを放ったのが、アメリカを代表するVCのマーク・アンドリーセン(1971年〜)である。氏が2011年に発言した「Software Is Eating The World(ソフトウェアが世界を飲み込む)」という言葉は、スタートアップの創業者や投資家によって繰り返し引用され、福音といってもいいような受け止め方をされている。
TwitterやメルカリやYouTubeのいずれにしろ、私たちが本来的に持っていたはずの動機がハイジャックされてしまう現象は、実は古くからの問題なのである。資本も、システムも、ソフトウェアも、私たちを飲み込んでしまうのがそのネイチャーなのだ。
何が問題か
私はインターネットのソフトウェア産業のなかで働いている人間なので、アンドリーセンの言葉を福音として受容し、加速主義的な考え方を肯定する福音として再利用する言説によく親しんでいる。自分にとっても、それが魅力的に響くことは否定できない。
一方で、私のもう半分は、ニュースや思想を扱うメディア産業のなかにある。そこでは、加速主義的な考え方に対して、近年は特に警報が鳴りっぱなしの感がある。デヴィッド・グレーバーの『ブルシット・ジョブ』(2020年)、斎藤幸平の『人新世の「資本論」』(2020年)、ジェニー・オデルの『何もしない』(2021年)、マイケル・サンデルの『実力も運のうち』(2021年)、そして昨年末に文庫版が出てあらためて世に問い直された國分功一郎の名作『暇と退屈の倫理学』(2011年)。個性の豊かな良書を乱暴にひとつにくくることをどうか許していただいて、めちゃくちゃ強引に要約するとすれば、これらは、資本とシステムとソフトウェアによる動機のハイジャックを拒む理論と実践を示している。それは、ある場合には計算可能性の外側に逃れることであったり、ある場合には身近な人々に語りかけることだったりする。私が実際に行っていることを例にすると、スマートフォンのアプリのプッシュ通知をすべて切って暮らしていることだとか、特別な意図がない限りはSNSの投稿にハッシュタグは絶対につけないことだとかは、計算可能性の外側に逃れることにあたるし、息子の小学校のOB/OGが運営する園芸部に顔を出すのは、身近な人々に語りかけることに近い。立派なことをしていないのに立派な言葉をあてるのは恥ずかしいが、カズオ・イシグロのいう「縦の旅行」のささやかな実践である。
このふたつの私がどのような割合で存在しているかというと、おそらく上のパラグラフの文字数に等しいのではないか。つまり17%の加速主義的な考えと、83%の保守主義的な考え。だいたいそんなもんかもしれない。そうすると、後者の成分が多い私は、資本やシステムやソフトウェアが世界を飲み込むスピードに加速がついているこの状況に問題を感じることになる。
再び、動機のハイジャックを拒む
さまざまな労働が、計算可能性の内側に飲み込まれている。飲食の配達は、「ギグワーク」という耳に聞こえの良い言葉と共に飲み込まれたし、ゲームをプレイすることも、その一部が「Play to Earn」という新語にシュガーコートされはじめている。その問題は、創作と「クリエイターエコノミー」の関係においても同様である。
クリエイターが稼ぐ方法が充実することは喜ぶべきことだが、その動機がハイジャックされることは拒みたい。システムが創作世界を飲み込んでいく止めようのない流れのなかにあって、せめて自分は、そこに埋め込まれることを拒みたい。そういう価値観を示すことが、問題に対して選択肢を増やすことになると思っている。簡単ではないんだけど。
執筆ノート
この記事を書くにあたっては、「週刊読書人」掲載の宮台真司さんの原稿から大きな刺激を受けました。またその後、けんすうさんと、とんふぃさんと、Next Commons Labのメンバーとのディスカッションからも多くを学んでいます。ありがとうございました。2022年2月3日
Photo by Miguel Á. Padriñán from Pexels
なるほど、ハイジャックとアンドリーセンがこうつながるかw