背景
これまでに、以下のような順番で記事が公開されています。
NFTとメタバースについて思うこと (kumagi, 2022/2/11)
空想のNFTと現実のNFT (sasakill, 2022/2/13)
Re: 空想のNFTと現実のNFT (kumagi, 2022/2/14)
はじめに
「空想のNFTと現実のNFT」というエントリを書いた後、そのタイトルに「Re:」を重ねた返信エントリをいただいた。久しく忘れていたブログらしい流儀に、誇張なしに頬が緩んだ。また文末においては、長文での反応があったことを歓迎する旨が述べられていた。そのような紳士的な礼儀にTwitterでお礼を述べたところ、「引き続き返信お待ちしています」との言をいただいた。自分がこれについてエントリを書くのは一度きりにするつもりだったのだが、流儀と礼儀を心得た相手であればもしかしたらいくらか意味のある議論にできるかもしれないと思って、もう一度だけ書いてみようと心変わりした。
ブログはあまり議論に向いた道具ではないが、Twitterよりましなところがあるとすれば、文章ひとつ言葉ひとつを逐一とりあげた些末な議論ではなく、それらの集合によって示そうとしている上位の概念、具体的にはパラダイムとか哲学とか意思とかあるいは単に好き嫌い、そういったものについて思うことを述べ、相手の考えていることついて考える材料を得られる点にある。それさえできれば、意味のある議論だったと言っていいだろう。そう思って書くことにする。
パラダイムのギャップについて
返信を二度三度と読み返しながら、どこがもっとも根本的なギャップなんだろうかと考え、思い至ったのがアテンション・エコノミーに対するスタンスである。
そのスタンスをゼロイチではなくスペクトラムでとらえると、kumagiさんは「アテンション・エコノミーが最高であるとは思っていないが、市場の競争によって良い体験が生まれていることは認める」というもので、一方私は「アテンション・エコノミーの影響力が強くなりすぎていて、それ以外の良い体験の可能性を押しつぶしている」ととらえている。簡単にラベリングしてしまえば、前者が現状のアテンション・エコノミーに対して楽観的なのに対して後者は悲観的ということになる。
そうした考えの違いは、たとえば以下のようなところにあらわれる。
ところでYouTubeには毎分60時間もの動画がアップロードされている。(中略)さらにそこの動画は世界で毎日40億回再生されている。アテンション・エコノミーの最たる実例だと思うが、毎日40億回再生されている状況を果たして「誰も欲しくない」と呼んで良いだろうか?
これは反語的表現なのでkumagiさんの言わんとすることは「これはこれで悪いものではないのだ」という現状の肯定である。対して私の感じるところはやはり「やがて世界は誰でも手に入れられるが誰も欲しくないものであふれるようになり、ユーザー体験が貧しくなっていくのを誰にも止められなくなる」ということになる。もちろんこれもゼロイチではなくスペクトラムなので、なかには当然のことながら本当に欲しがられるものも、良質なユーザー体験もある。ただし全体としては「アテンション・エコノミーの影響力が強くなりすぎていて、それ以外の良い体験の可能性を押しつぶしている」と思っている。
これについて考えるときに「欲しい」という概念を分解して考えることがある。WantとNeedとである。食事にたとえると、Wantに応じて摂取するのは糖や脂であり、Needに応じて摂取するのは水や炭水化物やタンパク質やビタミンということになる。もちろん、Needは体調に応じて変化するから、水や炭水化物がWantになることはもちろんある。だから応用が利くように言い換えると、行動経済学的でいうところの自動的で速い処理の「システム1」が欲するものをWant、意識的で遅い処理の「システム2」が欲するものをNeedと呼んでもいいかもしれない。
YouTubeやTikTokなどが得意とするのは上記で定義するWantのほうの"欲しい”を満たすことであって、そこでアテンションを消費しつくしてしまったユーザーはNeedのほうの"欲しい"を満たすだけの余裕がなくなる。アテンションが限りある資源であると考えることがアテンション・エコノミーのポイントなので、どこかの影響力が強くなりすぎることは、それ以外の良い体験の可能性を押しつぶすことになり、それには問題があると考える。
話が少し大きくなったので身近な例に戻す。私は、システム1を常に刺激されて糖と脂だけを欲するようになることを拒否するために、スマートフォンのアプリの通知はすべてオフにして生活している。自分が気になったタイミングでしか見ない。そうすると、自分のNeedについて考えるだけの時間も得られ、限りあるアテンションをどのように分配するかについて自由が獲得できる。ただ、通知をすべてオフにする人はどうやら珍しいようなので、自分はアテンション・エコノミーについてかなり悲観的なほうなんだろうなとは思う。
というわけでここまでがパラダイムについての根本的なギャップの話である。
「一番大事な問い」について
kumagiさんは文中で「一番大事な問い」を定義してくれている。それは「NFTによって所有権を定義する事で新たに生じるご利益」とは何か? ということである。
これについて、さらに文中でこうも説明してくれている。
資産価値があるからプレイするわけでもなければ入門するわけでもない。カードの売買での損得なんてのは二次的な話であってプレイしたくてカードを買っているに過ぎない。コミュニティ全体としてゲームに対する信仰が時間を掛けて形成されたから鳥居でも奉納する気分でお金を注ぐ人が相次いで現れ結果としてカードに資産価値が付いたのであって、カードに資産価値を付ければ信仰が産まれるわけではない。
これは実にその通りである。少しくどいかもしれないが、カードを「NFT」に、プレイを「参加」に、ゲームを「プロジェクト」に読み替えてさらにわかりやすくすると次のようになる。
資産価値があるから参加するわけではない。NFTの売買での損得なんてのは二次的な話であって参加したくてNFTを買っているに過ぎない。コミュニティ全体としてプロジェクトに対する信仰が時間を掛けて形成されたから鳥居でも奉納する気分でお金を注ぐ人が相次いで現れ結果としてNFTに資産価値が付いたのであって、NFTに資産価値を付ければ信仰が産まれるわけではない。
そうするとこの文章は、私がNFTを購入した理由を説明する文章としてまったく過不足なく機能する。それを示すために、私が実際に購入したNFTを紹介する。
例1) 山古志住民会議のNishikigoiNFT
最初に関連リンクを挙げる。
山古志住民会議 - note 運営によるアナウンス
Colored Carp - NishikigoiNFT プロジェクトの公式サイト
NishikigoiNFT - OpenSea マーケットプレイスでの二次流通
新潟県にある人口800人の山古志村。市町村の合併でいまは長岡市の一部になっているが、その地域に住む人々が、NFTの購入を通じてデジタル村民を集め、選挙によって予算の執行権限も預けながら、オフラインとオンラインを通じてあたらしいコミュニティの自治に挑戦しているプロジェクトである。
私は新潟にも山古志にも縁がないが、このプロジェクトをサポートしているメンバーのなかに友人・知人がいたため、このような挑戦がいったいどのようにして可能なのか? ということに興味をもって購入した。
現状、私は取り立てて大きな貢献はできていないものの、アクティブに動いているDiscordはときおり巡回していて、どんな企画が進行しているかチェックしている。また、私は常々「ローカル」という分野に興味を持って活動しているので、その分野であたらしい取り組みを探している人にはこの事例を紹介することにしている。
NFTの所有を通じてプロジェクトに参加するこの体験は、いまとなっては商品の先払い購入にしかすぎないようなプロジェクトばかりになってしまったクラウドファンディングと比べると実に鮮烈である。実感として、同じ価値を共有するコミュニティに自然に包含されていく心理と、自分がオーナーシップを持つことで生じる当事者性には独特なものがあると感じた。もちろん、これが実現できるのはNFTだけである、とは主張しない。うまく企画・運営されたクラウドファンディングに同様のことができるように、他の方法もあるだろう。ただ、NFTが得意なことのひとつではあると思う。
例2) Pixel Heroes X
最初に関連リンクを挙げる。
これは最近買ったばかりのNFTなのでプロジェクトの概要を詳しく説明できないのだが、説明できないものをなぜ買ったのかを説明することには意味があると思うのでそれについて書く。
ドット絵のキャラクターが5555体発行されている「Pixel Heroes X」は、これだけみると「ただのJPEGじゃん」と思えるかもしれない。「It’s just a JPEG」はNFTに対する代表的な批判ひとつであるが、個人的には別にただのJPEGであってもいいと思っている。だが、本エントリでそこまで肯定するとさらに文字数が必要になってしまうので、ここでは「ただのJPEGじゃないよ」という話だけをする。
以下に示す図のうち、左側のキャラクターはただのJPEGであると思っていただいてよく、右側に表示しているのがこのNFTがもっているメタデータの一部である。そこには、武器としてDark Spear、盾としてHeavy Sheild、鎧としてGambler Bodyなどの装備が記載されている。
そうすると、まずいまのところは「ただのJPEG」だったのが「ただのJEPGとただのメタデータのセット」いうことになる。じゃあこれが「ただの〜」ではない「特別な価値を持つなにか」に成長するかどうかは、これを使ったプロジェクトやコミュニティの活動による、ということになる。
その活動はDiscordのなかで行われており、二次創作やゲーム開発が活発に行われているようである(まだ参加したばかりなので、いまのところは「ようである」と書きます。もっと時間が経って、自分の参加の度合いが高まれば、もっと確信を持って書けると思うのですが、いまのところはわかっていることだけ書きます)。私は、そのプロジェクトとコミュニティのアクティブさだけを見て、NFTを購入した。
もともとこうしたファンタジーの世界観が好きだったのもあるし、このような装備のリストを使ったNFTプロジェクトとしてもっとも有名な「Loot」には言語の問題があって参加しづらいので、日本語で参加できるこのようなプロジェクトがあるのであればぜひそこに参加したいと思っていたのだ。そこにPixel Heroes Xがあらわれた。あらかじめ確かな価値があるから買おうと思ったのではない。なんだかおもしろそうだったから、という理由だけでNFTを購入する動機としては十分だった。
さいごに
以上ふたつの例を紹介したうえで、最初に掲げた一番大事な問いに戻ろう。「NFTによって所有権を定義する事で新たに生じるご利益」とは何か? ということだった。まずそのご利益とは資産価値のことではない。損得は二次的な話だ。それは先に述べられた通りである。
NFTを購入したいと思ったときに私に生じたのは「プロジェクトやコミュニティに参加したいという心理」であり、その後の所有を通じて生じたのは「自分もまたその価値をつくるひとりであるという当事者性」であった。それが地域貢献の場合もあれば娯楽の場合もあるが、コミュニティへの参加とオーナーシップから生じる当事者性は、自分にとって物事の楽しさを加速させてくれるアクセラレーターの役割を果たしている。言い換えればそれは、他者によってシステム1を刺激され続けるような行き過ぎたアテンション・エコノミーに身を浸すのとは違って、自分のなかにある内発的動機によって興味を掘り下げていく主体的な行為である。なんでもかんでもオーナーシップと言うと言葉が安くなるが「おもしろがるオーナーシップ」みたいなものである。それが自分にとってのご利益(ベネフィット)である。
繰り返しになるが、こうしたベネフィットがNFT以外によっては起こらないなどと主張するつもりはない。あらゆる方法があるだろう。ただし、NFTによってそれが簡単に、気軽に行えるようになったというのは、個人的な体験から言えば事実である。そしてそれは、つい人に伝えたくなっちゃうくらい魅力的なものだったのだ。
ちなみに、それなら自分もやってみようと思っていくつかのNFTの企画を準備しているところである。そのうち少なくともひとつは実現できると思う。ただのJPEGであれば今日にも発行できるのだが、一応、自分がやるものはそれ以上の工夫があるもの(NFTの言い方でいうとUtilityがあるもの)にしたいと思っているので、そこに時間をかけている。
蛇足を書くスペースが最後にしかないので、歯切れが悪いがもう一言。
私が「界隈の人」かどうかはだいぶあやしいと思う。いまのところDeFiにもGameFiにもArtの購入にもメタバースにもアテンションを割いていないので、語れることが限定的であり、それらに夢中になっている人々の心理は代弁できないし、そもそもそんなつもりもない(もしそうなら「Azuki」やなんやかんやといった有名なプロジェクトに言及していないとおかしい)。自分の関心はいまのところ、メディアとかコンテンツとかコミュニティとかローカルといった、ごく一部にだけ向けられている。それでもNFTそのものという大それたテーマについて書こうと試みるのは、「わからない奴はわからないでいい」という人々の姿勢を問題に思うからである。新自由主義経済のもとで倫理観の低下を隠そうともしなくなった加速主義者の一味になりたいとは思わない。
というわけで、このようなことを書き、議論するきっかけをくださったことに感謝します。
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