適当に再生したプレイリストからLana Del Reyの「Young and Beatiful」が流れて、ふと頭の中が『グレード・ギャツビー』でいっぱいになった。話し相手の得られない情熱に囚われたとき、自分はいつも架空の話し相手に向かって脳内で語りかけて、それで満足してしまうのだけど、これについては「メディアヌップ」に書いておきたくなった。
スコット・フィッツジェラルドの小説『グレート・ギャツビー』の刊行は1925年。モダン・ライブラリーが1999年に発表した「英語で書かれた20世紀最高の小説」では2位にランクされている。1位がジェイムズ・ジョイスの『ユリシーズ』であることを考えると、そしてそれが実際どれだけ読まれているかについて疑問を差し挟む余地があることを考えると、ほとんど20世紀最高の小説といって差し支えないような評価をされている。
日本では、古くは野崎孝の訳がよく親しまれ、現在ではきっと村上春樹の訳がもっともよく売れているのではないだろうか。しかしそれに限らず、さまざまの訳者による翻訳が版を重ねており、いまなお新しい読者を獲得しているおそるべき小説である。
私がこの小説を愛好する理由を、今ならはっきり言語化できる。
この小説の話者は、ニック・キャラウェイである。彼がニューヨークで体験した狂乱の1920年代と、そこで出会った一人の変わった男・ギャツビーについて、すべてが終わってしまった後に作品として書き表したのがこの小説である、という構造になっている。それを自分なりに要約するとこんな感じになる。
ニックは基本的に、その世界をろくでもないものだと感じている。金と、酒と、パーティと、才能と品性と繊細さを欠いた俗物的な人々による軽蔑すべき馬鹿騒ぎ。ギャツビーとの出会いによって自分も否応なくそこに含まれていき、一時は、彼らのお仲間であるジョーダン・ベイカーとも良い仲になったりするが、基本的なスタンスは変えずに、常に一定の距離を保とうとする。しかし、ギャツビーが死んで狂乱が終わり、風見鶏のようなとりまきたちが蜘蛛の子を散らすようにいなくなったとき、ニックはそのろくでもない世界のなかにあったわずかな本物の守護者たらんとして、そのとき初めてこれまで保っていた一定の距離を破り、もはや誰もいなくなった中心に近づこうとする。そしてタイプライターに向き合い、作家となる。
これは、私が20代から30代にかけて仕事で経験した風景そのものである。
ブログに記録を残しているのでほぼ正確にわかるのだが、『グレート・ギャツビー』を最初に読んだのは2006年。いわゆるライブドア事件の年である。再読したのは2008年。リーマン・ショックの年である。レオナルド・ディカプリオがギャツビーを演じた映画版の公開は2013年。これを何度も繰り返し観た。LINEが1億ユーザーを突破した年だ。そこで経験した風景には、小説や映画に照らして、1920年代のニューヨークに似たところがあったのである。
そのときまでに私は初めての長編小説を書き終えていたので、小説家として『グレート・ギャツビー』を三読し、こんな感想を残している。
これは粋がった言い方になりますが、自分も長編小説を書くようになって、この作品がいかに尋常ならざるものかというのも以前に比べてわかるようになった気がします。当たり前の言葉だけを使って、見る角度によって輝きを変える宝石のような多義的世界が顕現している、すごい小説です。(2013/9/4)
それからさらに繰り返し読むようになって、2015年、ある先輩に「グレート・ギャツビーみたいな小説を書いてみたらいいんじゃないか」と言われた。私はそのとき「いやいや無理でしょ」と笑い飛ばしたのだが、その実、本気になりだしていた。自分が経験した風景や、そこで感じた複雑な気持ちは、『グレート・ギャツビー』の構造を使うことで表現できるのではないかと思い当たったのだ。つまり、現実の著者であるフィッツジェラルドと、話者のニックと、主役のギャツビーが分担している多義的なバランスのことである。あの素晴らしい文章をものにする力はなかったとしても、構造やバランスは模倣可能だし、試みる価値はあると思えたのだ。
軽蔑すべき馬鹿騒ぎと、否応なくそこに含まれる自分と、風見鶏のようなとりまきと、わずかな本物と、その守護者たらんと変化する自分。見る角度によって輝きを変える宝石がつくれるんじゃないかと大それたことを考えて書いたのが、2016年から2017年かけて書いた『僕らのネクロマンシー』(刊行は2018年)である。
その試みが成功しているかどうかは読者に委ねるしかないが、その話は今回の趣旨ではない。『グレート・ギャツビー』を愛好する理由の話だった。それはつまり、20代から30代にかけて自分が正気を保つためにもっとも重要な役割を果たしたものだったのである。繰り返し読み、それを自らの試みとすることで、自分は幸いにして生き延びることができた。おかげで、今となっては『グレート・ギャツビー』を読み返すこともなくなった。いつかまた手に取ることはあるかもしれないが、そこにはかつてあったような切実さはもうない。
でもときどき、こんな風に音楽が流れ出すと、強烈に過去に引き戻されるのである。
そうだ。「過去に引き戻される」といえば、最後にあの有名な一文を引いてもいいでしょうか。
So we beat on, boats against the current, borne back ceaselessly into the past.
これを野崎孝はこう訳しました。
こうしてぼくたちは、絶えず過去へ過去へと運び去られながらも、流れに逆らう船のように、力の限りこぎ進んでいく。
村上春樹はこうです。
だからこそ我々は、前へ前へと進み続けるのだ。流れに立ち向かうボートのように、絶え間なく過去へ通し戻されながらも。
どっちもいいんだよなあ。書き出しと結びの有名な文章を英語で読みたくて、英語の古い版も購入して大事にしています。
もうひとつおまけに。宣伝です。小説『僕らのネクロマンシー』のプリント版はこちらで購入できます。おかげさまで残り部数が僅かとなってきました。Kindle版はこちら。NFT版はこちら。