「Building the Middle Class of the Creator Economy / クリエイターエコノミーの中産階級の構築」(日本語訳)という記事があります。
ミドルをいかにエンパワーするかという問題意識と、その具体的な手法が紹介されており、非常に価値ある内容だなと思う一方で、「クリエイターエコノミー」という言葉の利用を避けている自分としては、読んでいて気持ちに影が差すところがありました。
まず、クリエイターエコノミーはプラットフォーム側の言葉であって、ユーザー側の言葉ではありません。でも、それはそれで気になりません。業界人がトレンドを共有し合う光景というのはありふれたものなわけですから。
ただ、「これからはクリエイターエコノミーの時代だ!」という掛け声がユーザーに向けて喧伝されたり、業界人に呼びかけているつもりが肥大した自我によってうっかりその大声が外にもれちゃったりするのを聞くと、それはちょっと違うんじゃないかという気になってくるんです。
この記事はこんな風に締めくくられます。
Societies and platforms flourish when there is a path for everyone to have upward mobility, achieve financial security, and learn and grow. The beautiful thing is, in the real world as well as in the digital world, it’s up to us to build this path.
社会やプラットフォームが繁栄するのは、誰もが上昇志向を持ち、経済的な安定を得て、学び成長できる道があるときです。美しいことに、現実の世界でもデジタルの世界でも、この道を築くのは私たち次第なのです。
この威勢のよさというのは、英会話教室が「これからはグローバル人材の時代です! 英語を学べば収入があがります! 語学で世界をよりよく変えていきましょう!」と駅前で叫ぶのに似ていて、ポジショントークと誤認と誇張がまじりあったメッセージになっています。部分的に同意できるところがないではないんですが、これに能力主義的な表現が加わるってくると、いよいようんざりする気持ちが止められなくなってきます。
私がUGCのプラットフォームを開発し運営することを仕事にしはじめて、今年で20年近くになります。そればかりを仕事にしてきたので、クリエイターエコノミー的な考えが重要なのは百も承知です。しかし、私はその言葉の利用を避けています。その言葉には、プラットフォームが独占する世界への暗い誘いを、「クリエイター」という甘い言葉でシュガーコートし、それを飲み込んだ者をロックインさせようとする下心があるからです。私はその言葉を、ユーザーに向けてはもちろん、同業者に向けても使う気にはなれないわけです。
坂本龍一と山下達郎が82年に出演したサウンドストリートで、「アーティストって呼ばれる風潮がなんか気持ち悪い」ということを言っていたのを思い出します。それは、自分たちはまず単にミュージシャンであるという自認の話だし、それをレーベルやメディアの人たちがアーティストと持ち上げるのも気持ち悪ければ、それを真に受けて得意な顔をしているやつらも気持ち悪い、というような意味でしょう。
その話を敷衍してみると、私たちユーザーは「クリエイター」ではなく何なのか? 私の考えでは、私たちはまず単に「オーナー」です。それは文字通り、自分たちが作り出した物や行為について、オーナーシップを持っているということです。それに対してWeb2のプラットフォームは、いろんな下心をシュガーコートしながら、そのオーナーシップの一部を召し上げようとするわけです。
私がこう書くのを読んで「だって昔はそれしか方法がなかったじゃないか」と思うプラットフォーム側のみなさん、私も同感です。誰かを責めているわけではありません。でも、今はちょっと時代が変わりつつあります。つまり、ここで唐突にWeb2というキーワードを出したのは、最後にこういうことを言いたいからです。オーナーシップに新しい技術的裏付けをあたえるWeb3においては、真にクリエイターエコノミー的な考え、いうなればオーナーシップエコノミーが実現できるかもしれない。誰に与えられたのでもない、自然な熱意と創意によって突き動かされている真のクリエイターは、今そのことに興奮しています。
私はそのことを同業界人と話し合いたいし、そのことをユーザーに語りかけたい。