ニュースを読む余裕が出てきたので、ひさびさに週刊ペースです。
今週のナイン・ストーリーズ
2022年11月22日〜2022年11月29日
1/ 羽生善治の復活 「檜舞台で顔を合わせる日を」の誓いから5年
ワールドカップで日本がドイツに勝利した同日、将棋ファンは羽生さんの復活に心を震わせていました。藤井さんが羽生さんのタイトルに挑戦するのじゃなくて、羽生さんが藤井さんのタイトルに挑戦する。それがどんな偉業であるかを書いた素晴らしい記事です。
ちなみに、2008年には羽生(38歳)と渡辺(24歳)が永世竜王のタイトルを奪い合った100年の一度と呼ばれた名局・名シリーズ(参照)があったのですが、そのときには夫婦で最終第7局を天童市まで観戦に行きました。次の王将戦七番勝負は、それに続く盛り上がりの予感。わくわくしています。
驚くべきことに、自閉症の被験者が他の参加者と目を合わせるたびに、後部頭頂皮質という脳の領域で活動が低下していることがわかった。しかし、ASDでない参加者は、アイコンタクトをとっているにもかかわらず、このような脳活動の変化を記録しなかった。
私は自閉症ではないのですが、視線を合わせないコミュニケーション、たとえば電話だとか、ドライブ中に助手席の人と交わす会話だとか、資料を大きく投影しているときのビデオ会議だとかを好むので、とてもよくわかる気がします。声と言葉だけでやりとりできるほうがリラックスするし、活動的になります。
3/ プロダクトマネージャーの募集要項で書いてはいけない7項目

2022年の現在、これを読んでいくと「なるほどなあ」とか「そりゃそうでしょ」と思うのではないかと思います。
別の言い方では、「PMはミニCEOであるか否か問題」としてよく議論されるものです。PMはミニCEOであるという人もいれば、そんなわけないという人もいて、会社の性格やステージによるという人もいます。ただしトレンドからいけば、PMに期待されるロールが明確に定義されるのに応じて、PMのCEO性は剥げ落ちていっており、その最新形が「新規事業立ち上げ」も「事業計画の作成」も「エンジニアのマネジメント」も「要件定義」も「WF作成」せず「エンジニア経験」も「PO経験」もなくてよいことになってきている、というわけです。
そこでふと、2年ほど前に書いた「ディレクションの行方」という文章を思い出したので、長々と引かせてください。
私の場合、長いプロダクトに関わるメンバーのテンションを程よく維持するために途中でどういう山場を作ろうかな、ということを考え、中間アウトプットの納期に異様にこだわったりする。実際には10月第1週までに出来上がっていればよいものでも、9月30日までに達成されていることを強く要求する、など。その後のペース配分に乱れが出てくるとしても、そのときに持っている物を全部差し出してやる。そういう要所をあえて作ってメリハリをつける。だから逆に、しばらくだらけていてもよい期間を作ったりもする。「らあ、らあ、らあ」。太く長い一本の線を描こうとし、かつ、その期間中の意思決定の裁量が与えられていると、そういうことができる。
このようなことをディレクションと呼ぶとき、ディレクション不在のプロダクトマネジメントがどうなるかというと、特に不思議もなく成立する。しっかりとマネジメントされたプロダクトは、タスクがサイズ的にも期間的にもブレークダウンされ、それら細部を破綻なく進めていけば、最後に大きな構造物ができるようになっている。むしろ、ディレクションへの依存度を下げることで、再現性の高い技術と知識の体系としてまとまっていると言うこともできて、それは複雑化し高度化するウェブやアプリのプロダクトを開発する過程で起こった必然的な変化なのだろう。建物や自動車をつくる手法とのクロスオーバーがどんどん進んでいる。
そこでふとナイーブに問うてみる。ディレクションは必要なんだろうか?
オーケストラを指揮し、よい音楽を生み出すにはディレクションが必要だ。しかし、規格通りの建物や自動車をつくるのには必要ないかもしれない。それよりも再現性の高いプロダクトマネジメントが必要とされる。
すると問題は、こう言い換えられる。いまのウェブやアプリのプロダクトは音楽に属する事なのか、それとも建物や自動車に属する事なのか?
かつてそれは音楽に属することだった。重機と工場ではなく、オーケストラによって生み出されるものだった。いまでは、ディレクションの効いた音楽は簡単には手に入らないものになってしまった。
ではこのディレクションする力がどこから生まれるかというと、ロールが明確に定義されていない混沌のなか「すべてやらねばならない」というところから生じているような気がして、私はそれを懐かしく思いますし、いまでも好んで再現したいと思っています。
4/ ビットコインとクリプト/web3はもう完全に別物です【FTX事件からの教訓】
独自トークンの発行は発行主体や少数の人間への信頼を再導入し、トークン売却による短期的な利益や爆発的な成長、高い利率などと引き換えに、ビットコインの革新であったはずの分散性や検閲耐性を損ないます。
記事タイトルには「もう完全に別物です」とありますが、これはFTX事件のずっと前からそうでした。コミュニティとそれに属する人間への信頼を導入するイーサリアム(およびその他あらゆるクリプト)は、ビットコインの思想とはその点でまったく別物です。また、それらに対して、暗号文化(Crypto Culture)と暗号精神(Crypto Ethos)という言葉をあてる人もいます(参照)。
じゃあそれらが別物だとして、ビットコインと暗号精神だけが本物かというと、たぶんそうではない。いかがわしいものだらけのイーサリアムと暗号文化の混沌のなかに、本物を探して目を凝らそうとするのを、やめようとは思いません。
5/ 日本のNFTマーケットの極めて個性的な点

つまりこういうことです。「なんと、日本のNFTプロジェクトは金融商品じゃないんだ! クリエイターやアートを支援して、長期的に応援するものなんだ! これを理解しないと日本で成功するのは難しいぜ」。実感がこもっていて実におもしろかったです。
民俗学者・畑中さんの原稿。三箇所引かせてください。まず「限界芸術」の意味から。
鶴見の仕事に予備知識がない読者が、〈限界芸術論〉という言葉を目にしたとき、その意味するところをただちに理解することは困難だと思われる。それは鶴見が、〈限界〉という言葉を、いまわたしたちが思い浮かべるのとは違った意味で用いているからである。
今日の用語法で「芸術」と呼ばれている作品を「純粋芸術(Pure Art)」と呼び替えることとし、この純粋芸術に比べると俗悪なもの、非芸術的なもの、ニセモノ芸術と考えられている作品を「大衆芸術(Popular Art)」、両者よりもさらに広大な領域で芸術と生活との境界線にあたる作品を「限界芸術(Marginal Art)」と呼ぶことにしてみよう。
続いて、宮沢賢治に関する部分。
鶴見は、柳田による「小祭」への回帰とともに、限界芸術復興案として柳が構想した〈民藝作家たち〉による共同制作集団設立プログラムなどを評価していない。それらに対し、限界芸術の「作家」として、ほかの人には置きかえ難い位置を占めていると鶴見が評価するのが宮沢賢治である。
一般的には童話作家・詩人として知られる賢治の、羅須地人協会の設立をはじめとする〈農民〉による主体的な芸術運動・芸術教育創成の提案とその実践記録は、敗戦までの日本社会では正当に評価されることがなかった。しかし、賢治による民俗と近代を結び付けた具体的な実践は、今日から未来に向けての日本の状況に対して力になるものだ、と鶴見は期待を寄せるのだ。
そして、山古志村とNFTに関する部分。
限界集落活性化のための限界芸術──。わたしは決して駄洒落を言っているのではなく、こうしたところからアートとコミュニティの境目に位置し、またふたつの領域の触媒にもなる“限界デザイン”が生み出される予感がするのだ。NFTアートという新しい領域は、これからの芸術は「非専門性」によって生み出されるのではないかという、『限界芸術論』の問題提起に応える可能性を秘めている。
NFTプロジェクトでは一般に、アートとかアーティストという言葉が使われます。それに対して、「いや、自分(たち)はアーティストではないんだけど……」という自認からそうした言葉を使用するのをためらっていたことがあるのですが、最新の「Game of the Lotus 遠野幻蓮譚」では堂々とアートやアーティストという用語を使っています。
きっかけは宮沢賢治の「農民芸術概論」。メディアヌップのシーズン4で宮沢賢治博物館を訪れたときに(参照)、あらためてその作品に触れ、生活芸術家について考えるきっかけを得たことで、アーティストという言葉に迷いがなくなりました。コミュニティから生まれるアートにMarginal Artという言葉をあてるとすると、なんだかしっくりきます。
2022年の11月の時点(つまりFTX事件の直後)で、これほど前向きで楽観的なWeb3特集が「日経ビジネス」誌上で組まれることに驚きを感じて紹介しました。前項5で紹介した海外と日本のNFTの違いと同じように、海外と日本ではWeb3の受け止められ方がかなり違うことがわかります。その記録として。
8/ ポストTwitterの「Post.」をGoogle関連企業の元CEOが立ち上げた背景と勝算(Google特別対策室)
ポストTwitterにはずっと関心があるので、とりあげました。でも、こういうのであれば、これまでのTwitterと変わらないのではないかなと。ポストTwitterに求められるのはTwitterと同じような何かなので、それに応えて出来上がるものは真にポストTwitter的なものにはならない、ということなのかもしれません。
いまのTwitterユーザーが見向きもしないような本物のポストTwitterについて、引き続き考えたいと思います。
9/ 宇野常寛×福嶋亮大が語る、Web3と批評的言説のこれから 「人類社会の“時差”を意識することが重要」
Web3周辺の人のなかには、こういった「べき」論はWeb3という運動にブレーキをかけるので「するべきではない」という人がいたりする。要するに、未来への期待によってお金を集めている今日の金融資本主義というか、スタートアップカルチャーの論理に従うとこうした人文社会科学的な、文化論的な「べき」論は邪魔だ、というわけです。僕はこうした言説が「出てきてしまう」ことのほうが問題だと思う。それはまさにハンナ・アーレントが帝国主義について指摘した問題と同じです。植民地のヨーロッパ人にナショナリズムはむしろ希薄で、純粋にその土地を開発し、版図を広げる「グレート・ゲーム」のプレイに純粋にアプローチすればするほど、その自己拡張のシステム自体には無批判になってしまったのがその特徴です。今でも全く同じことが繰り返されていて、何も新しくなっていない。
読む前は「ちゃんとわかってるかな?」と一瞬不安に思っちゃいましたが(大変失礼しました)、Web3/Web2.0という用語の使い方も現状認識も正確。Web3リアリストの立場として賛成できる内容でした。遠ざけるのでもなく冷笑するのでもなく、厳しい批評の対象としてWeb3が見られるのはすごくうれしいことだなと思います。
あとがき
というか、おしらせ。GOTLをWBSでとりあげていただきました。ありがたいです。今年のふるさと納税の使いみちをまだ決めておられないみなさま、どうぞご検討ください。
また、ダイヤモンド・シグナルさんからも取材いただきました。記事はこちら。点としてプロジェクトをとりあげていただいたことだけでなく、線としてお話を伺っていただいたことがうれしかったです。
また、GOTLとTales & Tokensの発表をきっかけに、NFT Summit Tokyoでも登壇の機会をいただきました。
地域×Web3最新事例 - ふるさと納税から旅行につながる体験型NFT(岩手県遠野市)
スマニューラボとNext Commonsが岩手県の遠野で提供する体験型NFT。神話を用いたコンテンツ開発と、ふるさと納税を通じた流通と、地域経済と連携したユーティリティについて。
Web3のイベントに登壇するのはこれが初めて。昨年11月にWeb3にハマってからちょうど一年ですが、なんとかあたらしい一歩を踏み出せた感じです。