再び4週間もさぼってしまいました。
その間に何をやっていたかというと……ポッドキャストを10本、日乗を5本、「燕三条NFT」の発表、「無摘果リンゴでつくるハードサイダー」のイベント、「LISTEN」のリリースを手伝って、山古志DAOのスペースに出演して、「それでもメディアは面白い」のスペースに出演して、などをやっていたことになっています。頭のなかはそれらでいっぱいなんですが、あえて言及せず、目に留まったニュースだけをまとめていきたいと思います。こんな風にしてニュース「だけ」を振り返る時間って、貴重なんです。
今週のナイン・ストーリーズ
2023年4月12日〜2023年5月2日
1/ a scope 〜資本主義の未来編〜 宇野常広さん編
全4話のシリーズがちょうど完結したところ。おもしろかった。聞きどころは、深井さんが宇野さんに打ちのめされていくところ。たとえば、以下の引用は私がつぶやいた第1話のハイライトです。
深井さんが「自分はanywhereな人である」という自己認識を披露したあと、宇野さんが「anywhrereな人々は自分に関心がありすぎる、自分の話をし過ぎる、ナルシシズムに閉じている」と切り返すところがハイライト。
その後、第3話では、印象的な言葉が飛び出します。
承認欲求をハイジャックされた大人はもう手遅れとしつつと、宇野さんはひとつの処方箋をこう断言する。「傷つくことだ」。
37歳の深井さんの未成熟な部分が、44歳の宇野さんによって結構ストレートに、でも優しく暴かれていく展開はポッドキャストならでは。文章で読むときつい対話になっちゃいそうなところでも、お互いの声に敬意があるから気持ちよく聞ける。今シリーズはすごくよかった。
ちなみに、最終話では「コレクティフ」という概念が説明されます。私は、初めて知りました。簡単にいうと、「集まるんだけど、コミュニティにはならない」という状態、概念です。リアクションに対するリアクションがハウリングを起こすSNSが昔から大嫌いな私は、最近特にニュースレターやポッドキャストのような同期性の弱いメディアを好んでおり、それを「小盆地宇宙」などと表現することがあります。「コレクティフ」はそのような状態や概念を説明可能な、(私にとって)あたらしい語彙で、とても気に入りました。
2/ メタクソ化するTikTok:プラットフォームが生まれ、成長し、支配し、滅びるまで
げんなりするくらい長い、というか読みづらい文章ですが、著者は冒頭と末尾でしっかりと論旨を書いてくれています。
プラットフォームはこのように滅びていく。まず、ユーザにとって良き存在になる。次に、ビジネス顧客にとって良き存在になるために、ユーザを虐げる。最後に、ビジネス顧客を虐げて、すべての価値を自分たちに向ける。そうして死んでいく。
(中略)
長年、Tiktokの批判者であっても、どれほど監視的で、薄気味悪くても、ユーザが見たいと思うものを推測することにかけては認めざるを得なかった。だが、そのTiktokでさえ、ユーザが見たいものではなく、ユーザに見せたいもの見せるという誘惑には勝てなかったのである。そうしてメタクソ化が始まり、それが止まることはおそらくないのだろう。
プラットフォームにすでに期待を抱かなくなっている私は、著者の感じているような「がっかり」をいまさら感じないので主たる論旨には特に関心をもたなかったのですが、文中におもしろい指摘がありました。
「マネタイズ」という言葉は、「アテンション・エコノミー」というものが存在しないことを暗に認める残念な言い回しである。アテンションは交換できないし、価値の貯蔵にもならない。勘定単位(unit of account)として使うこともできない。アテンションは、いわば暗号通貨のようなものだ。トークンはそもそも無価値であって、誰かを騙してトークンと「フィアット」通貨を交換させられる程度の価値しかない。トークンで「マネタイズ」しようとすれば、つまるところ、偽金をホンモノのお金と交換しなければならないのである。
著者はトークンに否定的な意見を持っているようですが、ポイントはそこではありません。「アテンション・エコノミー」も「トークン・エコノミー」も、実際には(最終的には)法定通貨に交換する必要があること。そして、その交換に至る前段階に、さまざまな罠や詐欺や欺瞞が入り込む余地があるんだということをあらためて指摘しているところがおもしろい。
これは実に当たり前の話のようでいて、古くは岡田斗司夫が「これからは評価経済の時代だ!」と言ったときに、あるいは、Twitterが登場して以降インフルエンサーなる人たちが「フォロワーの数こそが次世代の資本なんだ!」と浮かれた発言を口にするようになったときに、みんな深く考えずに「そういうもんかもしれんな」と思って流してしまっていたことに対して、あらためて「いや。違うね」と言っているようなものです。
はっ。引きづられて読みづらい文章になってしまった。
shi3zさんのエッセイ。
最近、ググればわかることや、GPTればわかることをあえて人に尋ねるおもしろさに自覚的になっていたところだったので、以下の部分が心に留まりました。
与えられた質問には答えるが、そこに自分の意思はない。
仮説を出せと言えば出すが、それは天才的な発想にはなり得ない。そう、大規模言語モデルと会話していて感じるのは、この天才性の欠如である。
優れた知性は、必ず独自の価値観を持っており、その仮説を検証し、微修正しながら自分なりの世界観を構築していく。
大規模言語モデルには、その仕組みが丸ごと抜けている。
だからどこかで見たようなことしか言えない。これは一般的な知性とは到底呼べない。
たとえば先日、ハードサイダーのWhatやHowを尋ねるオンラインイベントを開催したのですが、最後の感想で述べたのは「検索してもわからないWhyやWillを知れてよかった」ということでした。
そこから話を飛躍すると、意思を持っていれば誰でも天才と呼べるんじゃないかと、そう思うようになりました。優れた人のことを「ジーニアス!」と言ったりしますが、そういう用法じゃなくて、「意思を持って、自らの行動により世界に影響を与えようとする人はすべからく天才である」というような意味です。そう考えると、天才と話す方がおもしろい。というか、天才と話すこともおもしろさが、ますます際立っているのが今だと言える。
4/ ファンタジー世界での一生を紡ぐ。TRPGの自由度をデジタルに持ち込む野望を掲げた新作RPG「Archmage Rises」,アーリーアクセスを開始
めちゃくちゃおもしろそうなコンセプトだと感じたのですが、話題になっている感じがまったくしない。このギャップに、私と世間とのズレを示す重要なヒントがあるのではないかと思って、塾考の材料としてとりあげます。
バタくさく古くさいアートがダメなのか、流行りのキーワードを何も入れてこないプロダクトアウトな姿勢がダメなのか、そもそもコンセプトがそもそも魅力的じゃないのか。
5/ Will Paper Books Become Obsolete Like Horse-Drawn Carriages or Survive Like Bicycles?
最近よく取り上げる、内沼晋太郎さんのMedium。「紙の本は馬車のように時代遅れになるのか、それとも自転車のように存続するのか?」
LLMのAIが生み出した衝撃が、本を掘り下げてきたアクティビストの知性と行動をこんな風に刺激しているというのが、心強いし、おもしろい。意思を持って、自らの行動により世界に影響を与えようとする人。これこそまさに天才である。
6/ We Have to Talk About Substack
Substackは、デススターに挑むミレニアム・ファルコン号のような期待を負わされているところがあり、chatやnoteのような機能を出すと批判されるポジションにあります。
Substack は、ブログ/記事の公開と電子メールを組み合わせた独自のアプローチです。ただし、オープン プロトコル (電子メール) に基づいて構築されているにもかかわらず、Substack は人々をシステムに閉じ込めようと懸命に努力しています。彼らは最近、アプリ内チャット スレッドから近日公開予定のTwitter クローンに至るまで、いくつかの新機能を発表しました。(中略)
しかし、これらの概念はすべて、オープン Web の考え方に反しており、私たちの周りで死にかけている中央集権型プラットフォームのように見えます。
これに対してどう思うか? 「クローズなWeb」と「オープンなWeb」という二元論しかもたなければ、自動的にそのような批判があたってしまうかもしれませんが、最近私は「小盆地宇宙」とか、あらたに「コレクティフ」という言葉も覚えて、クローズとオープンの間に無限に存在するスペクトラムの「どこか心地よいところ」を探しています。それからすると、いまのはSubstackはとても心地よい方向に向かっていると感じます。悪いことないんじゃないかな。
7/ 「AIイラストを修正してみた」に集まった意見と批判 #AIイラスト
ふたつの意見があります。一方は、「AIに生成させたイラストなのになに言ってんだ」というもの。もう一方は、「そうだとして、人の作品を勝手に修正するなんて非常識」というもの。
法律的な判断の話を置いておくとして、個人的な心情に立ってみれば、時間とお金を費やして脳に汗をかいたものに「自分が作ったものだという感覚」が生じる、生じてしまうのは自然なことだなと思いました。巷間言われるほどには、自分が満足いくイラストをAIに描かせることは簡単ではないので、それはよくわかるなと。
UGC狂としては、なんとなくそっちの肩をもってしまいたくなります。
こういう本です。
今月、4月28日に『土偶を読むを読む』という書籍を出します。これは『土偶を読む』の検証本です。
ご存知の通り、世間一般の評価と対照的に、『土偶を読む』は考古学界ではほとんど評価されていません。いや、相手にされていないと言った方が正確でしょう。それはなぜなのか、本書ではその非対称な評価の理由と、『土偶を読む』で主張される「土偶の正体」、それに至る論証を検証します。
話題の書『土偶を読む』がサントリー学芸賞を獲ったとき、選考委員の佐伯順子氏はこういいました。
「この新説を疑問視する「専門家」もいるかもしれない。しかし、「専門家」という鎧をまとった人々のいうことは時にあてにならず、「これは〇〇学ではない」と批判する〝研究者〟ほど、その「○○学」さえ怪しいのが相場である。「専門知」への挑戦も、本書の問題提起の中核をなしている。」(佐伯順子(同志社大学教授)評、サントリー学芸賞・選評〔社会・風俗〕二〇二一)
「土偶は植物を模したものである」というアイデアをおもしろいと思っていいねした人もいれば、「せまい学会に閉じこもっている(であろう)専門家を風通しのよいところにいる私が批判してみる」という快楽にいくらか酔っていいねした人もいるかもしれませんが、なぜこうした説になびいてしまうのかを自らに問い直す意味で、必読の書だと思いました。『土偶を読む』にいいねした人は特に。
ちなみに私は、縄文を研究する「専門家」よりも、古い時代であるのをいいことになんでもかんでも「縄文◯◯」や「縄文しぐさ」に還元してしまうアマチュアのほうに警戒感をもっていたのですが、「縄文ZINE」のような媒体がこのような検証活動をしているのを知って、見方を改めました。「アマチュアだから〜」という見方は、「専門家だから〜」という見方の裏返しで、中身知らないものの思考の省略なので、このように時間を割いてその活動を知ることができてよかったです。おすすめします。
9/ 山下達郎「SPARKLE」Music Video(2023)
Spotifyはダメだけど、YouTubeならよいそうです! 2023年についに登場した公式ミュージックビデオ。映像も素晴らしいけれど、見どころは世界中から寄せられる熱いコメント。
ご列席の皆様、音楽の神様が正式に YouTube に登場!
とのこと。他にも「The king has returned」的な意見が多く、読んでいて楽しい。
今週は繰り返し聞いていました。
あとがき
ポッドキャスト100回記念に向けて、リソグラフによるアート作品を制作しています。額付きでコストがかかるので、数は12個が限度かな。欲しがってくれる人がいるといいのですが。
このニュースレターの配信をセットしたら、ちょっとした連休です。息子とキャンプに行ってきます。
見出しタイトルに惹かれて、寝起きの瞼をしばいて読み切りました笑
前職でsasakillさん含め色んな方と行っていた雑談系1on1でそのような瞬間が多々あったなと懐かしく思い返しています。