きみは熱を出して床に伏しているのに、なかなか寝付けず半覚醒状態にある。季節は夏で、時刻は昼。冷房では寒すぎるので、ブラインドを下げて窓を開けている。風がよく通る部屋で汗ばみながら目を閉じていると、外の音がよく聞こえてくる。小刻みに発進と停止を繰り返す軽いエンジン音は郵便配達夫のそれで、空から降ってくる歓声は少し離れた小学校の校庭で発せられたものだ。風がそよいだり時々強く吹いたりするのが、木の葉がすれあう音でわかる。瑞々しく、しかしよく乾いた葉っぱが、何千何万と集まってざわ、ざわ、とゆらぐ心地よい響きだ。
いま遠くで誰かが草刈りをはじめた。そんな気がする。でもそのときにはもう、きみにはその音が実際に聞こえているのか、ただ想像しているだけなのか、あるいは風景までもが視えてしまっているのか、よくわからなくなっている。朦朧とした意識が、そこにあった壁を越えて、どこまでも染み出してしまっているのだ。ことによっては、草刈りしているのは自分なのかもしれないとさえ思う。でもそう思った次の瞬間には、きみはすでに木や葉や草を含む宇宙そのものになっている。
しかしその宇宙のなかに、あたりと溶け合わぬひとりの女がいる。
それをみつけて、きみは覚醒する。いつもの部屋の、いつもの天井だ。
そして再び、自分は自分で、他人は他人で、宇宙は宇宙に戻る。
きみは、この感覚のことをよく覚えておこうと思った。そして病が治ったあとに、それを実行に移した。なんでもない日常のきっかけから、自分のことを失くし、溶かそうとした。嵐の夜に風雨がテントを打つ音を聞きながら目を閉じているいるときに、郊外の廃墟に向かう電車の窓から野焼きする畑を眺めているときに、砂漠の酒場で古老たちがサイケデリック・ロックを演るのを見ながらあとさき考えずに夜の底に向かって酔っぱらっていくときに。そしてそのどんなときにも、やはりなにとも混ざらぬ女の姿をきみはみつけた。
それを幾度も反復し、何日も何日もが経ったあと。
きみは小説を書きはじめることにした。
そのときがふと訪れたのだ。
まず大量のインプット。学習と体験、それら記憶の反復。語りたいことについて、誰よりも詳しくなる。夜空に星座をみつけられるくらいではいけない。点と点をつなぐ程度のことは誰にだってできる。そんなのはいかようにも言えてしまうインチキだ。そうじゃない。星々をつなぐことなんかとてもできないくらいの満天の星空から、かつて誰も発見したことのない新しい星をみつけるのだ。あきらめることなく目を凝らし続けた者にだけ見えるものをみつける。そうでなくちゃいけない。その星に名前をつけられるのはきみだけだ。文明がいつか滅び、星座が忘れられても、その星の存在だけは揺らがない。そういうものをみつけるのだ。大丈夫。きみはその星を必ずみつけられる。
次にただ一点のアウトプット。そのためには、物語をはじめるのに正しい入り口を探さなければならない。きみの口から、ひとつずつ、つながりをもって、分岐せず、後退せず、まっすぐに伸ばしていける一本道につながる入り口を。それはいくらもあるようでいて、これだと思えるものはひとつしかない。そのたったひとつを探り当てる。大量のインプットのおかげで、きみはそうした行為をひどく困難に感じる。胸の内にある言葉にならない閃きをそのまま手渡せたらどんなにいいかと思う。エンド・トゥ・エンドで伝えられたらと。でも、きみにはその力がない。だから適切な順番で少しずつ語るしかない。それに、そうすることしかできないというのが、小説のいいところだ。誰も抜け駆けはできない。
それから、長く語り続けるための丈夫な乗り物をみつけなければいけない。乗り物とは文体のことで、文体は筆者と話者の関係で決まる。明らかにしたいことを明らかにし、隠したいことを隠したままにしておけるかどうか。これならうまく嘘をつき通せそうだなと思う語り口が、きみの乗り物だ。それをみつけたら、あとは習慣の問題だ。長い時間をかけてなにかをやり遂げた経験があれば、必ずできる。部活でも、受験でも、楽器でも、広告とりでも。
きみはまずはじめに、祭りの夜にひとり墓参した日のことを思い出した。
違う。もっと前からでなくては。
別れた日か、出会った日のことか。
いいや。もっと。もっと前のことだ。
そしてきみは、みんなが生まれる前のことを思い出した。
それこそが正しい入り口だった。
きみはついにそれをみつけた。1
(つづく)
きみはついにそれをみつけた この序を書いたのは、おそらく2018年の暮れか、2019年のはじめのことだったと思います。2018年2月に『僕らのネクロマンシー』が出版されたあと、そろそろ次の作品にとりかかってみようかと思った、そんな時期でした。
そこからが長かった。
その理由は、すべてのこの「序」のなかに書いてあります。まず大量のインプット、次にただ一点のアウトプット、そして丈夫な乗り物。これらが整わないうちに書いたものは、ことごとく途中で行き詰まってしまい、何度も出直すことになりました。
一度は公開し、後に取り下げたものもあるので、それらを途中まで読んでくださった方の仕切り直しのために過去バージョンに言及すると、1) 主人公が親不孝通りで伊能犬親に出会うところからはじまる「湖の底から戦争がはじまる」と題したバージョン、2) 主人公が松平芙美子さんの別荘の管理人を任されるところからはじまる「水の底のリインカネーション」と題したものがありました。
行き詰まった後にすることは、再び大量のインプット、一点のアウトプット、丈夫な乗り物、です。そして――これが結果的に良かったのかもしれませんが――2022年は執筆のことをほとんど忘れてNFTコレクション「A Wizard of Tono」や「Game of the Lotus 遠野幻蓮譚」をつくって過ごしました。そして気づいたら、ついに「正しい入り口」を見つけられたような気がして、三度この連載に挑戦してみようと思っているところです。
今回、この序に続けて書くのは、前述したどれとも違う第三のバージョンになります。それを『遠野戦記』と題しました。もし書き終えることができたら、あとでタイトルを変える可能性はありますが、とりあえず連載していくにあたっては、このように名付けることにしました。ちょっと照れくさいような、逃げ隠れできない堂々としたタイトルだと思いますが、そうしたものを書きたいと思ってあえて選びました。
最後に重要な注釈をひとつ。「連載小説」なんていう根気のいる娯楽につきあってくださる方がもしいるとすれば、その行為が少しでも楽になるように、この作品の「筆者と話者の関係」についてあらかじめ説明したいと思います。
序と注の話者は、筆者(佐々木大輔)
本文の話者は、序で筆者に「きみ」と呼びかけられる人物
「序」はこのページのことで、「注」はまさにこの文章のことです。本文にはたくさん注が登場しますが(そう、田中康夫の『なんとなくクリスタル』のように、です)、これらの話者はすべて筆者です。
そして次が少々複雑なのですが、この「序」に続く本文の話者は、筆者ではなく、序で「きみ」と呼びかけられている人物です。
一読して気づかれたと思いますが、この序は二人称という珍しい手法で書かれています。ジェイ・マキナニーの『ブライト・ライツ、ビッグ・シティ』とか、テッド・チャンの『あなたの人生の物語』が有名です。それが本文では三人称に変わります。三人称は極めて一般的な手法なので例を挙げる必要はないと思いますが、『遠野戦記』という作品の雰囲気を伝える意味であえて書くと司馬遼太郎の『項羽と劉邦』や酒見賢一の『後宮小説』がそうです。
以上のことがわかるとちょっと読みやすくなるかと思いますが、問題は「なぜそんなことをするのか」とうことだと思います。実は、それも序に書いてあります。
明らかにしたいことを明らかにし、隠したいことを隠したままにしておけるかどうか。これならうまく嘘をつき通せそうだなと思う語り口が、きみの乗り物だ。
本当のことを書くために、嘘をつき通す周到な準備が必要だった、というわけです。
しかしこのような序を書いたのは、もう4年も前のことです。技術がないので愚直なやり方しか出来ず、正しい入り口を見つけるのに長い時間がかかってしまいました。自分では時々、彫刻刀で大仏を彫るような真似をしているなと思うことがあります。
でも、とにかく、再び入り口に立ちました。正しい入り口であるような気がしています。連載などという形式をとるのはおそろしいですが、とりあえずはじめて、続けることに努めてみようと思います。応援よろしくお願いします。
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