やがて安良衛1と呼ばれて人々に知られることになる男が、海の底に不思議な発光体を見た。慶長16年、現在の暦法でいえば1611年12月2日、午前のことである2。
その数日前――、安良衛は、スペインの探検家セバスティアン・ビスカイノ3が操舵する二代目サン・フランシスコ号の下級セイラーとして働いていた。齢14歳。ビスカイノが徳川家康から三陸沖測量の許可を得て、伊達政宗に謁見したあと、リアス式海岸をゆっくりと北へ向かっていく洋上のことである。安良衛は、一歳下のシモンと謀ってビスカイノの船長室から盗みを働き、それが露見して屈強な船乗りたちに取り押さえられた。
「憐れみをやろう。左腕か左目。どちらか選べ」ビスカイノは言った。
シモンは左腕を、安良衛は左目を失うことを選んだ。ふたりは二艘の小さなボートに乗せられ、放逐された。安良衛の持ち物は、麦わらと、ロザリオと、船長室からくすねたあと気づかれずに済んだダガー4が一本きり。パンはおろか水もない。漂流は、遠からず訪れる死を意味していた。
母船が去り、手がかりのない冬の海原に投げ出されたあと、安良衛は海を見て過ごした。シモンは船底に倒れたまま、残った上腕を押さえ、空だけを見ていた。
「シモン、聞こえてるか」と安良衛が言った。
「……」
「シモン」
「うるせえ――。痒いんだよ、腕が」
「馬鹿いえ。痒がる腕がないだろう」
シモンは「失くしてみりゃわかるさ」と小さくつぶやき「おまえの目はどうだよ」と安良衛に言った。
「見えない」
「そりゃそうだ」
「……でも。よく視える気がする」
シモンは軽口を言いかけたが、会話で体力が奪われるのを嫌ったのか、それとも「そんなものかもしれない」と思い直したのか、また空を見て黙ることにした。
その沈黙を最後に二人の会話は途切れ、気まぐれで力強い海流は二艘のボートを声をかけても届かないところまで引き離した。
発光体が海の底を照らしたとき、安良衛は死の間際の幻覚を見たのだと思った。もし安良衛がスペインではなく日本に生まれていたのなら、大鯰5の伝説を思い出したかもしれない。あるいは後世の人であれば、メタンハイドレートやプランクトンといった言葉6をひっぱりだしてきて説明をしようとしたかもしれない。しかし、とにかくれそれは、大地震の前兆であった。
まずはじめに、朦朧としていた安良衛を覚醒させる大波が起こった。ボートは木の葉のように波の頂に浮かび、沈んだ。次に、ボートの下をくぐっていった大波は勢いを失わぬまま陸地に向かって押し寄せ、海岸近くで隆起すると、黒い津波となって港と町を飲み込んだ。三度、寄せては引いたということである。そして安良衛は、すべてが流されてしまった後の陸地に、大量の漂着物と一緒に流れ着き、後になって人々からあらましを聞かされた。後の世に有名な慶長奥州大地震7である。
安良衛は、流れ着いた港一帯で力をもっていたハンマー家にひろわれ、下働きとして暮らすうちに、土地の言葉と経済と暴力を学んだ。津波は、海洋の生態系を破壊しただけでなく、陸地のエコシステムをも揺るがしていた。即ち、ハンマー家のサケ漁がダメージを受けたことで、ハンマー家に薪や炭を卸していたとなりのクリーク家の商売にも影が差した。津波の影響のない内陸で支配を広げていたサウス王国は、その機会に乗じて謀略の手を沿岸地域の両家にまで伸ばし、それに対抗しようとハンマー家とクリーク家は滅びたスワンプ王国の残党と結びついた。一方、領土拡大を狙うサウス王国に対して遠方から睨みを効かせていたのがダンディー王国である。サウス王国との境界にあるライス家と手を組んで、常に牽制を欠かさなかった。
このような権力争いの中心地が、トオヌップである。
400年続いたスワンプ王国がクーデターによって没落した後、新政権が確立するまでの27年間、トオヌップにはほぼ無政府状態が続いた。政治的空白と経済的混乱がトオヌップを囲む国や家の欲望を呼び寄せ、しばらくの間、誰もそれをコントロールできなくなった。戦国時代が終わり、世の中がおおむね近代に向かって進んでいくなか、トオヌップだけが中世に逆戻りしていったというわけである。後の歴史家はこれを暗黒時代(ザ・ダークエイジ)と呼んだ。
ハンマー家が海からの恵みや内陸からの穀物を以前のようには得られなくなった後、さらに力を入れるようになったのが製鉄であり、それを鍛えることによって生み出される武器の製造であった。それは古来、ハンマー家における有力な産業のひとつであったが、安良衛の持っていたダガーが思わぬ契機になった。それを見た商人たちが、武家のための兵器ではなく、誰もが手にできる護身のための武器を売ることを思いついたのである。切るための技術が要らない刺突のためのダガーは誰にでも扱いやすく、安価で、優れた商品性が暗黒時代の市場にフィットした。つまりはよく売れた。政府による武力の独占が機能しなくなったタイミングに、人々が武装できるプロダクトが広まった結果、暴力と知恵を持つ者たちによって独自の文化がつくられる自由都市が誕生しようとしていた。
厳しいと海と険しい山とを接続し、サウス王国とダンディ王国が干渉しあう盆地、混沌のトオヌップ。安良衛は、そんな時代に太平洋を渡り笛吹峠を越え、暗黒時代の中心地に足を踏み入れたのである。
(つづく)
安良衛 あらえい、あるいは、アラエーと読む。水野葉舟が1910年(明治43年)に発表したエッセイ「遠野物語を読みて」には、佐々木喜善の家で働いてる若い男の名として報告されており、クリスチャンネームがなまったものとされている。なお、佐々木家で働いていた厚楽安良衛と本作の登場人物は、国籍も生きた時代も異なる別人。
午前 『言諸卿記』には辰刻(8時頃)、『政宗君記録引証記』には巳刻過ぎ(10-11時頃)、『慶長日件録』には午刻(12時頃)とある。
セバスティアン・ビスカイノ Sebastián Vizcaíno(1548年 - 1624年)。スペインに生まれた探検家。太平洋航路で活躍した。
ダガー 主に刃渡り30センチ以下の近接戦闘用の刃物。16世紀以降、船乗りがよく携帯したとされる。
大鯰 おおなまず。地震を起こすとされる伝説の生物。『日本書紀』にまでさかのぼることができる。
メタンハイドレートやプランクトンによる発光 資料による地震津波発光(1999年, 榎本祐嗣) から
慶長奥州大地震 現在の青森県、岩手県、宮城県を襲った地震。津波の高さは、田老や大船渡で最高20メートル前後あったと推定されている。