安良衛の第一の仕事は、盗賊だった。アカプルコ1のスラムでは、足りないものがあれば余っているところから盗ってきた。生きるためにあたりまえにしていたことだった。13歳になったとき、太平洋の果てにあるジパングに金銀島を探しに行く船がでるという噂を聞き、盗賊仲間のシモンと一緒に無理に下働きを頼み込んで乗せてもらった。それが第二の仕事、船乗りである。そしていま、安良衛は、第三の仕事として駄賃付け2をしている。馬を引いて峠を越え、荷物を運ぶ仕事だ。
ハンマーの町からトオヌップまでの距離はおよそ40キロメートル。大人の足なら一日の距離である。しかし一人前の駄賃付けは、一日半でこれを往復した。しかも、積んだ荷を売りさばき、復路のための仕入れまでして。体力の要る危険な仕事だったが、稼ぎはよく、なりたがる者は多かった。
もちろん流れ着いてすぐの安良衛にそこまでのことはできなかった。まず、土地の言葉をまだ憶えていなかったから商売ができなかった。加えて、月代を剃らずにおろしただけの頭髪と、日に焼けた赤い肌をした隻眼は、「一つ目の鬼」と見られても仕方ないような魁偉な容貌に結びついていた。一つ目の鬼は『出雲国風土記3』にも登場する日本最古の鬼としても知られており、古代製鉄民が鍛冶の炎を見つめ続けることで片目を失明してしまうことが多かったことからそのように言い伝えられたという説があるが、ハンマー家からの荷物を積んでやってくる安良衛は、それが単なる連想に過ぎなかったとしても、製鉄の山里からやってくる鬼に見えたのである。
だから駄賃付けになれる道理はなかったのだが、安良衛には特別な能力があった。他の誰も聴くことのできない幽かな音を、色として視ることができたのだ。本来ならば視覚の神経ネットワークとつながるはずだった安良衛の脳のシナプスは、左の眼球を失ったことで行き場を失い、代わりに聴覚の神経ネットワークとつながった。そして、安良衛の音は色になった。現代の私達はこれを「脳の可塑性」や「共感覚」といった言葉で説明できるが、理屈はどうあれ、崖崩れを察知したり馬の体調の異変にいち早く気づく安良衛の能力はまわりのものに重宝された。
それによって安良衛は、峠を越えて最初のアオザサ村まで荷物を運ぶ仕事を任されるようになり、街で開かれる市での取引は他の仲間が引き受けた。このような役割分担によって、安良衛はこの世界にみずからの居場所をみつけることができた。
日の出る前に出発し、オオカミの襲撃に怯えながら笛吹峠の難所を越すと、ちょうど昼頃にトオヌップの平野の北端に出られる。そこからおおよそ西の方角には、内陸から沿岸まで広い地域の信仰を集める霊峰・パハヤチニカ4が冠雪をかぶって白く輝いている。気温が低く、空気が澄んでいるときには、遠近感の狂ったような山容を遠くの村々からでも見ることができた。安良衛はその景色を見ながら、夜までの間、ふたりの仲間の帰りを待つ習いになっていた。
このとき安良衛の話し相手になったのが、村境の東屋に宿る年齢不詳のひょうはくきり5、犬松である。安良衛がはじめてトオヌップに来た日、犬松はまず原始の女神の話を語って聞かせた。
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むかしむかし、女神が三人の娘をともなってトオヌップにやってきた。
「今宵、天より霊華が降りし娘に、もっとも良き山を与えよう」
人々が寝静まり、動物たちだけが闇夜に目を光らせる夜更け、淡く輝く霊華が空にあらわれた。
霊華は、湖の底に石が音もなく沈んでいくように、天から真っ直ぐツーっと降ってきて、眠る長女の上で力を失うと、ふわりと胸に舞い落ちた。
そのとき、ミミズクが「ほう」と鳴いた。
目を覚ましたのは末娘である。
末娘は、姉の胸の上でまだわずかに光をはなっている霊華をみつけ――、盗った。
翌朝、女神は末娘にパハヤチニカを与え、長女と次女にはそれに次ぐ山々を与えた。
以来、パハヤチニカに座する女神さまは、盗み犯した者にもご加護をくださるということで、世に逆らう縁なき衆生からも信仰を集めているという話だ。どんどはれ。
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安良衛は、犬松に何度もその話をせがみ、犬松はそれに応えた。犬松には、なぜ安良衛がこの話にこれほど惹きつけられるのかわからなかったが、盗賊だった安良衛にとって、盗っ人にも加護を与えてくれる女神の存在は赦しを与えてくれる希望であった。だから安良衛は、駄賃付けでトオヌップを訪れると必ずパハヤチニカに向かって手を合わせ、その度に「花を盗った話」を犬松にせがんだ。パハヤチニカを拝めないときには首からかけたロザリオをにぎって祈り、あらたな信仰の拠り所とした。
さてその犬松、知っている昔話や噂話の数にかけては人後に落ちぬ語り部であった。峠や境界を行き来する人々が東屋で休むとき、犬松は旅人の話し相手となった。すると相手は、遠くの話や新しい話を犬松に語って聞かせた。このように話が集まるされるところに語り部が生まれ、それらの話は語り部によってさらに広まることになる。犬松は、そのなかでも特に往来の多い場所にいつの頃からか居着いているひょうはくきりなのである
そんな犬松にとって、安良衛はまたとない話し相手だった。トオヌップにまつわる神話、伝説、昔話、童話、歴史、巷説、噂話などあらゆる話を聞かせ、言葉をひとつひとつ教えた。言葉を憶えるようになると、今度は安良衛が話したり尋ねたりする番だった。
「パハヤチニカに登った人はいるのですか」
「頂上を極めた人の名は聞かないな」
「犬松さんほどたくさんの話を知っていてもですか」
「そうだ」
「ところで犬松さんは、いったいどれくらいの話を憶えているんですか」
「千を超したところで、数えるのをやめた」
「すべての話を聞いたことのある人は」
「いないな」
「じゃあ……犬松さんが死んだらその話もなくなってしまうんですね」
犬松は少し考えてから小さく「おれは死ねないからな」と言った。
安良衛は言葉の意味がとれないのを自分の語学力のせいだと合点したが、それは実に額面通りの意味だったのである。これまでに長寿族6に会ったことがなかった安良衛には、それがわからなかった。
そして3年半が過ぎた。安良衛は18歳になった。
(つづく)
アカプルコ メキシコの港湾。フィリピンのマニラと結ぶ太平洋横断航路の重要拠点。
駄賃付け 駄賃馬稼とも。中世、馬が日本に入ってきてからの輸送業。鉄道が敷設される明治まで続いた。
出雲国風土記 編纂が明示されたのは713年。現存する最古の写本は1597年ものとされている。
パハヤニチカ 早池峰山のこと。伊能嘉矩が、アイヌ語の「パハヤチニカ」が「早池峰」の語源だと唱えたことによる。
ひょうはくきり ものしり、あるいは、嘘つき。数多くの話を知る存在で、それを語って聞かせた。『遠野物語』(1910年, 柳田國男)に登場する新田乙蔵、『老媼夜譚』(1924年, 佐々木喜善)の辷石谷江などがよく知られている。
長寿族 繁殖力が弱い代りに、非常に長命な一族。エルフやドワーフなどが有名。その性質から、現在はその数を減らしており、出会うことは稀。