仕事を終えた安良衛の仲間は、居ても立ってもいられない様子で「おまえも一緒に行くか?」と安良衛を誘った。安良衛は「切腹ってなんだ?」と言った。
スワンプ王国時代もクーデターも体験していない安良衛にとって、スルガとは単に聞き慣れない統治者の名前に過ぎなかった。しかし、断首ではなく切腹という処刑方法には興味をもった。安良衛の生まれた国にはなかったからだ。しかしこの場合、安良衛に切腹の本来の意味を伝えるのは難しかった。スルガの切腹は形式上は尊厳を保った自害ということになるのだが、それがサウス王国の謀略によって仕組まれた事実上の処刑であることは誰の目にも明らかだったのだから。
安良衛と仲間は、一日市通りを抜け、トオヌップの中心地から街を見下ろすナベクラ山の中腹にある広場へ向かった1。それより上にはナベクラ城があり、為政者の他、用のないものは立ち入れない。そのため静けさにつつまれているが、それより下は、いつもの一日市の活況に加えてスルガの切腹を一目見ようとする人々でごった返していた。出遅れた安良衛と仲間は広場の後方にいて、なんとか見通しのよいところを見つけられないものかと首を伸ばしている。
そのとき、安良衛は再び、あたりと溶け合わぬ、白く凍結したような空間を視た。「さっきの女だ」。女は広場の中程にいて、昏い熱狂が渦巻く広場に場違いな色彩を灯していた。
安良衛は久しぶりに盗賊の業を使うことにし、パーソナルスペースなぞとうに失われている密集地帯を、まるでニュートリノのように通過して女の横に立った。
女は、両手で印を結び、先ほどと同じように細く長く深い呼吸をしていた。瞼は半ばまで閉じ、視線は水平よりやや下。横顔から見える目と頬と顎と首にかけてのラインは雌鹿のように美しく、野生動物のような孤高さを湛えていた。
「なにしてるの」と安良衛は言った。
女は応えない。
「こんばんは」と大きな声で言い直した。
女は応えない。
無視されていることを理解した安良衛は少し考えて言った。
「それ。おれが生まれた国では精霊魔法っていう」
女は呼吸を続けたまま、素早く安良衛に目を向けた。その目に、ほっかむりしても隠せない隻眼の男が映る。初めて見る男である。女は、今すぐここから立ち去るべきかどうか逡巡した。
「おれは安良衛。生まれは海の向こう。盗賊をやって、船乗りをやって、いまは駄賃付けをやってる。目をひとつなくしてしまったおかげで、普通の人には見えないものが視えるようになった。たとえば、困っているのに人に助けを求められないでいる人だとか」
安良衛は、新たに習得した言語を使いこなす楽しさに酔って、通常であれば余計な一言を最後に付け加えた。しかしこのとき、女にはそれが図星で、それがよいほうに働いた。
「おれはイシ。生まれはクラホリ。まじない師だ。魔法を使う。今夜は……」とイシは言い淀んだ。耳をそばだて、周囲を警戒している。
「唇だけ動かして」と安良衛は言った。視たら聴こえるのが安良衛だった。
イシは唇を解いて、最初の一語を探して口を動かした後、考え直したように唇を結んだ。安良衛は言った。
「おまえは、ひとりで何かと戦っている。何年も、もしかしたら、もっと長く。それを誰にも言えずにいる。でも。それが、おまえだけじゃなかったとしたら」
するとイシは、安良衛をまっすぐに見つめ直した。
「(今夜、スルガは、次に降ってくる霊華の予言をする)」
そう言うとイシは、それくらいの予習は済んでいますよね? とでもいいたげな講師のように眉を釣り上げて安良衛を見た。雌鹿にはできない、人間らしい表情だった。そしてもちろん、安良衛は霊華について犬松から聞かされてよく知っていた。
「昔、女神が予言した」と安良衛は言った。
「(そう。霊華の持ち主が死ぬとき、次の持ち主が予言される)」とイシは言った。
そう言われて安良衛が察したのは、現在の霊華の持ち主がスルガであり、霊華がトオヌップを総べる験(しるし)になっているのだろうということだった。あるいはその反対に、トオヌップを総べようとする者が、霊華を求めるのかもしれないとも考えた。
そのとき、広場の前のほうからざわめきが伝わってきた。まもなくして、即席の壇上に正装したスルガと介錯人が現れた。壇を囲む警護の間からサウス家の者であろう侍がスルガの横に立ち、徳川に二心ありと疑われた複雑怪奇な罪を読み上げた。
しかしそれは見物客の耳には入らない。ナベクラ城の麓で、盛大に焚かれた篝火に照らされて闇夜に浮かび上がっているのは、スワンプ国王・ヒロナガを追放した張本人・スルガなのである。悪事のツケを支払わされているとしか映らないそのショーは、今夜が15年前のトオヌップ騒動の夜の続きであることをそこに来た誰しもに思い出させた。ただし、安良衛を除いて。
「以上である。スルガ、最期に言い残すことはあるか」
侍がそう言うと、広場のざわめきが止んだ。
静寂。
そのとき、スルガの末期よりもこの広場全体の雰囲気をおもしろがって眺めていた安良衛には、スルガの次の言葉に特別な注意を払う九つの色が視えた。
空気が凍結したような白色は、となりのイシ。さきほどから細く長く深い呼吸を続け、今ついに精霊に呼びかけたところだった。
「(木霊!)」
音のない声が、安良衛には聴こえた。イシは何者かと会話している。
スルガが「残る一族のことは、約束通りお頼み申します」と憤怒と無念を隠しもせず言うと、侍と介錯人はそれに何事か短く答え、スルガはついに観念する様子を見せた。
そして今度こそは、目を中空に据え、朗々たる声を出した。
「次の新月、
ところがそれに続く言葉は、突然巻き起こった大風によってかき消された。
それは不思議な風だった。
壇上は見るからに無風。しかし広場一帯には、髪が巻き上げられるような突風が吹いてあたりに目をやれないほどなのである。トオヌップの人はこれを「“学者おもい”が来た2」といった。屋内の書物は吹き飛ばさず、屋外にだけ被害を加える風の妖怪である。
無風の壇上では、侍が何事か書き留め、その後、スルガが腹をかっさばいて突っ伏し、介錯人が首を落とした。見物人は、その無音の惨劇を轟々という大風のなかから見た。
風が止んだときには、すべてが終わっていた。人々は予言を聞き逃した。
「残念だった」と安良衛は言った。
しかしイシは引き続き集中し、目を閉じて何事かに耳をすませている。そして「ありがとう。よく話してくれたね」と言って、誰かに小さく手を振るような仕草をした。
目を開き、呼吸を整えたイシは、緊張を解いた普通の女に戻っていた。歳の頃は17か18。安良衛と変わらない。
「(次の新月、物見の山で)」とイシが言った。それは予言の続きだった。
「手に入れて、どうする」と安良衛。
そしてイシは、自らの望みを声に出した。
「今度こそ、霊華を姉の手に」
犬松にせがんで何度もトオヌップ三山の姫神たちの伝説を聞いた安良衛には、それがどういう意味かよくわかった。古えの女神に予言されながらも、ついに霊華を手にすることのなかった長女。イシはその姉のために、時代を超えて何度も何度も降ってくる霊華を、今度こそ手に入れようとしているのだ。
なぜ安良衛がイシの話を理解し得たのか、現代の人々にとっては不思議に思われるかもしれない。理由はいかようにもつけられる。中世から近世にかけて人々がもっていた世界観や宗教観を用いれば、納得してもらうこともできるだろう。しかしそれをすることよって、反対に「現代ではあり得ないことなのだ」と思わせてもしまうかもしれないことを筆者は懸念する。だから特別な説明はしない。「生まれ変わり」はある。昔も今も。そう宣言してしまうだけで十分であるように私には思われる。
ふと安良衛は、九つの色のいくつかが視えなくなっていることに気づいた。そして、いくつかの色は、こちらに近づこうとしている。安良衛はイシの手を握った。
「着いてこい。振り向かないで」
イシは安良衛に手を引かれて、人混みを水のなかように泳ぎ抜けた。
「心当たりはあるか」と安良衛が訊いた。
「残された傀儡のタンバ。サウス王国の2代目。侵攻の口実を探しているダンディ王国。再興を期するスワンプ王国の残党。ハンマー家にクリーク家。他にも。霊華を望むものは、いくらもいる」とイシは言った。
ふたりは追手を振り払い、ナベクラ城に焚かれた篝火の明かりから逃れ、一日市の喧騒からも逃れ、橋の下の暗がりを探した。
「霊華がほしい?」と安良衛。
「どんな手を使ってでも」とイシ。
「精霊の力を借りて」
「そう」
「盗賊の力は?」
「腕が良ければ」
イシは口の端を柔らかく釣り上げて言った。安良衛は、イシが冗談を言ったのだとわかった。
「盗り戻そう。霊華を」
その日トオヌップの人々は、夜空にゆっくりと上昇する淡く輝く光を見たという。
しかしなぜか、安良衛とイシはそれを見逃した。
(つづく)
現在の南部神社があるところ。創立は、この小説の時代よりだいぶ時代がくだった明治15年(1882年)。
学者おもい 妖怪。室内の紙類は吹き飛ばさずに、屋外にだけ被害を及ぼす風。窓を開けていても、その風は室内に入ってこない。知識人にだけ都合がよいことから、学者おもいと呼ばれる。