新月まで28日。安良衛は、駄賃付けとして最後の仕事をするため夜明け前に仲間の元に戻り、イシは、旅の支度をするためクラホリの家に戻った。ふたりは、三日後に犬松の東屋で再会することを誓って別れた。
ハンマー港に着いた安良衛は、お世話になってきた人々に旅立ちのあいさつをした。稼ぎのいい駄賃付けを辞めて暗黒時代のアジールたるトオヌップでやっていきたいだなんてずいぶん変わったやつだと言われたが、それを言い出したら出自も変わっていれば外見も変わっている。製鉄と鍛治の国からやってきた一つ目の鬼として恐れられて、案外うまくやっていくんじゃないかと言って笑ってくれる者もいた。別れを惜しんでくれるものばかりだった。
ふと安良衛は、この世界に特別な愛着を感じた。
ビスカイノの船から投げ出された後、偶然たどり着いたハンマー湾。安良衛は最初、湾に浮かぶ小さな蓬莱島から四方を山に囲まれた鉛色の景色を眺め、すべてが破壊されてしまった後の浜にボートを寄せた。津波に飲み込まれた港は、その後しばらく再生の苦しみから逃れられなかったが、九死に一生を得て彼の地に漂着した安良衛にとっては、そこなる海の盆地はゆりかごのような場所であった。厳しくて、混沌としていて、代わりがなくて、それゆえ親のような存在だった。安良衛はここで生まれ直した。
「またどこかで」
そういって安良衛が駄賃付けたちの定宿を旅立とうとすると、ハンマー家を名乗る侍が戸口に立って安良衛を探し「尋ねたいことがある」と言った。
「トオヌップに駄賃付けに行ったとき、スルガの切腹を見物したと聞いたが、それは本当か」
安良衛は頷いた。
「そこで見聞きしたことを細大漏らさず申せ」
安良衛は素直に答えた。スルガが「次の新月に」と言ったこと、続く言葉は大風によって聞き取れなかったこと、サウス王国の侍と傀儡政権の介錯人が何事か書き取っていたこと。しかし、イシが精霊から聞いた「物見の山で」の一言だけは黙っていた。
ところがハンマー家の侍はそれで安良衛を解放せず、もう一人の仲間と一緒に任意同行を促し屋敷で尋問を続けた。安良衛はイシとの約束の三日が過ぎてしまわないか焦ったが、それを言えばイシは何者かと尋ねられさらに面倒なことになることが目に見えていたため、胸の内のざわめきを無視して、同じことだけを繰り返した。仲間にイシのことを言わなかった慎重さは、安良衛に幸いした。
尋問の最中に安良衛が見たのは、ハンマー家とクリーク家が行動を共にする姿だった。ハンマー家は元を辿ればスワンプ王国から分家した一家で、クリーク家はハンマー家と地理的・経済的な結びつきが強い一家である。津波の後、製鉄と武器製造でさらに結びつきを強くしてからは、二家で一家のような関係になっているという話だったが、それが見た目に明らかだった。しかるにこのハンマー家とクリーク家の二家は、無政府状態にあるトオヌップに領土的野心を持って霊華をねらっているものと安良衛は見た。しかし、あの切腹の場でスルガの予言を聞いたのは、サウス家と、傀儡政権と、イシだけのはず。ここで黙っていれば敵を増やさずにすむと考えた安良衛は、ますます堅く口を閉ざすのだった。
ただの駄賃付にそれ以上の疑義を持ちえなかった二家は、翌朝に安良衛と仲間を解放した。安良衛は仲間にあらためて別れを告げ、その足でまっすぐ笛吹峠に向かい、トオヌップを目指した。
安良衛は、イシのことを想っていた。
急いで休みなく歩けば、ぎりぎり約束の三日でトオヌップに着く。もし遅れることがあっても、犬松は東屋でイシを休ませてくれるだろう。そう考え、なんとか間に合う計算が立って安堵していた。夏とは思えないほど涼しい天候は今日も相変わらず続き、安良衛は汗もかかずに快調に峠を登っていった。
笛吹峠が九十九折りの難所に入って少しした頃。
安良衛は昼日中の森のなかに靄のような光の柱を視た気がした。
それはあまりに一瞬のことだったので、いつもなら見逃してしまうか、気のせいにして歩き去るところである。しかしこのときは、霊華を探す二家の追求から逃れてすぐの旅路であった。緊張がすぐよみがえり、茂みに疑りの目を向けさせた。
安良衛がしつこく待ち続けると、ざわ、ざわと音がし、鉄砲を担いだ猟師の出立をした男があらわれた。
「ははは。そんな険しい顔で見るな。出るものも出なくなる」
男は苦笑いを浮かべて腰紐を結び直しながら安良衛の方に歩み出てきた。年の頃は35。しかし、目を細めて笑う顔にほっとけないあどけなさがあり、年齢よりも若く見える。
「名は」と男が言った。
「安良衛。駄賃付けを辞めたばかりで、トオヌップに遊びにいくところだ」
「あそこは遊ぶのにいい所だな。金さえあれば」
安良衛は黙った。遊びに行くのは嘘だったが、駄賃付けで溜め込んだ財産を持っていたのは図星だったからだ。
「ははは。心配するな。金があると答えたからといって、奪おうだなんて思わない。俺は猟師だ。山から頂き、山に返す。そういう生業だ」
「おまえは」今度は安良衛が訊く番だった。
「ヌエ1と呼んでくれ」
「変わってる」
「猟師は、山の中で本当の名を使わない。忌み言葉という。山の神さまに命を召し上げられないため だ。今度、平地で会ったときには本当の名を教えてやろう」
「できれば会いたくないけど」と安良衛は正直に言った。
「ははは」とヌエは笑った。
盗賊で武器商人の端くれでもある安良衛には、とぼけた猟師のような風体のヌエがただものでないことがわかった。まずその銃。山中の田舎猟師が持っているはずのないクリーク家製の最新式。“一つ目の鬼”と呼ばれる容貌の男に山中で出くわしてそれに言及しないのもいかにも怪しい。すると、ここまで半日、安良衛は尾行されていたことになる。しかも、峠道を早足で進む安良衛に山道から追いついてきたのだ。信じられない術だった。そして今は、無造作に立っているように見えながらも、安良衛が変な動きを見せればいつでも銃を打てる構えを解かなかった。
ヌエも同じことを考えていた。野生動物さえ騙し切る尾行の技を、なぜか見破られた。そして、こうやって相対している間も、銃より早くダガーを投擲できる構えを解かず、有利な距離を保って譲らない。熟練のヌエには、安良衛がただの駄賃付けでないことは明らかだった。
「なんだか俺も催してきてしまった」と安良衛は言った。するとヌエも「俺もまた腹が痛くなってきた」と言って目を細めて友好的に笑ってみせた。ふたりは反対方向の茂みに入り、そのまま用を足さずに森の深くに入り込み、それっきり別れ、各々が山道からトオヌップを目指した。
これが、安良衛とヌイ2、初めての出会いである。本名、高橋縫乃助。またの名を旗屋の縫。後の世にも知られる伝説の猟師であり、トオヌップの山を隅々まで踏破する間者である。
約束の三日が過ぎたその晩、安良衛はけたたましい鳥の啼き声を聞いた。不吉な響きが峠に長く響いた。
「凶兆(シルマシ)!」3
犬松によく聞かされていた悪い兆しに胸騒ぎが止められなくなった安良衛は、一刻も早くイシに会おうとさらに急いだ。
極度の集中力を発揮した安良衛は、夜の山中に蠢く獣や鳥や虫の気配と、それらを反射する木や葉や草のわずかな音から、ぼんやりと浮かび上がる光の森を視た。
鳥獣の呼吸から放たれる鱗粉のように舞う赤い光。
植物が繰り返し描くフラクタルな緑の光。
虫の軀が奏でるデジタルな青い光。
それら濃淡が彩る七色の森。
その陰影の中に微かな隙間や獣道を視い出すことで、安良衛は暗闇の森を真昼の競技場のように駆け抜ける術を今まさに身につけ、トオヌップまで駆け下りた。
鵺 伝説の生物。顔はサル、胴体はタヌキ、手足はトラ、尾はヘビ。日本のキメラ。
ヌイ 本名、高橋縫乃助。『遠野物語』には旗屋の縫として登場し、数々の伝説で知られる。いずれその活躍を書く機会があるはずです。
シルマシ 遠野では悪い予感をそう呼ぶ