曙光が東の空を群青色に希釈しはじめた頃、安良衛は犬松の東屋に着いた。その朝、トオヌップは夏とは思えない寒さを今日もまた更新し、流れる汗は瞬く間に冷水のようになって安良衛の火照りを消した。
「イシは?」
安良衛はあらかじめ犬松に女との待ち合わせの約束を伝えていたのだが、犬松はまだそのような女の姿を見かけていないという。イシが生まれたクラホリからここアオザサまでは半日かからない距離であり、三日あれば遅れるはずがない。不測の事態が起こったのだ。安良衛のシルマシはあたった。
「話を聞かせてくれないか」と犬松が言った。
安良衛は、スルガの末期の叫びと大風の話からした。
「それは、“学者おもい”が出たな」
そして、姫神たちが争った霊華がまた降ってくるのだと言った。イシがそれを手に入れようとしていることも、姉のためであることも。
「どこに降る?」
安良衛は、イシが聞いた「物見の山で」という予言を答え、続けて「どこのことだ」と犬松に尋ねた。
「小物見と大物見。トオヌップにはふたつの物見の山が連なっている。さてどちらのことか……」
そう言って犬松はアゴで八の字を描いて考え事をした。
物見の山は、トオヌップの南端とダンディ王国の北端にまたがる国境の山で、町から眺めると牛が寝そべったような姿をしている。腰のあたりがナベクラ城に近い小物見。肩のあたりが、ダンディ王国寄りの大物見である。決して高い山ではないものの、広いエリアに横たわる山である。霊華が降ってくる地点にあたりがつけられなければ、予言を知っていたとしても霊華を目にすることすらできないかもしれない、そんな場所である。
「どうしてそれを欲しがるんだ」と犬松が訊いた。
安良衛には答えられなかった。
今まで、何かを欲しがって物を盗ったことはなかったからだ。
余っているところから、足りないところへ。
言葉にするならそんなところだが、それもまた本当に思っていることではなかった。
安良衛は考えた。
それはある種の“連絡”なのだ。
何かと何かの間に回路を開く。すると、何かが移動する。
何が移動するかは、どうでもよかった。
物だろうが金だろうが話だろうが、なんでもよかった。
大事なのは、移動のあとに起こる何かだった。
受容が起こり、変化が生じる。
そのための連絡なのだ。
いまはイシの存在が回路だった。
そこを何かが移動している。何かはわからない。
しかし、それを受け取ることによって、変化が生じようとしていた。
その予感がいまの安良衛を安良衛たらしめており、そこには欲望も目的も使命もなかった。
安良衛がしばらく黙考していると、犬松は「まあいいさ」と言って熾火に被せた灰をかいて小枝をくべた。しばらくして小枝に火が移ると、今度は太めの薪をくべた。煙が立って少しすると、十分に熱された木の肌からガスが噴き出て、それに火が移った。煙が立たなくなると炎として安定しはじめ、ふたりの脛を心地よく炙った。
「犬松さんは、前にも霊華を?」
「何度もな」
それに続く言葉を安良衛が待っていると、見覚えのない少年が東屋に近づいてきた。
歳の頃は12か13。
すくった水をこぼさないようにでもしているのか、両手を合わせて慎重に歩み寄ってきた。少年の目には、緊張と、その緊張からまもなく解放されることへの期待が浮かんでいた。
「あんた安良衛だな」と少年が言った。
「そうだ」と答えた安良衛は、「なぜわかる」とは問わなかった。誰の使者なのかはいまわかる。
「これを預かってきた」と言って、少年は合わせた手を少しだけ掲げた。「一度きりだからよく聞いてくれって」
安良衛と犬松の目が、少年に吸い寄せられる。
両手が開かれた。
「湖霊(こだま)1だ」と犬松。
手のひらから言葉が漂い、
〈安良衛、助けて。トンノミに連れて行かれる!〉
そして消えた。
「イシの声だ」
安良衛は、こないだまで孤立して消えてなくなりそうだったイシの声のなかに自分を頼る響きを聞き取って、帆が風を受けて膨らむような気持ちになった。シルマシは的中したが、その結果はむしろ安良衛に力を与えた。どこまでも航行していけそうだった。
「犬松さん、トンノミはどっちだ!」
「それはまた困ったところだな」と言って犬松はめずらしく頭をかいた。
それは古来から、人が近づいてはならぬ禁忌の森とされている場所だった2。トンノミは「鳥海」と書き、森の背後にある小高い鳥海山からはパハヤチニカ、ロクカウシ、イシカムイのトオヌップ三山が遠望できる。ことにパハヤチニカには深い因縁があり、森の中の池にはパハヤチニカの姫神様が姿を現すという。信心なきものが足を踏み入れると、竜にまたがった貴人があらわれて立ち所に森の外まで吹き飛ばすのだそうだ。その貴人こそが姫神様であり、パハヤチニカの怒りに触れたくないトオヌップの者は、めったなことでは近寄らない。
犬松がそう言うと、安良衛は「それならむしろ安心だ」と言ってロザリオを握りしめてみせた。犬松は、身勝手な信心には何の効力もないことを知っていたし、これまでトンノミに行って帰ってこなかった幾人もの顔を思い浮かべてもいた。しかし結局は引き留めなかった。安良衛が約束したイシが何者かであるならば、あるいはうまく帰ってこられるかもしれない、そう考えて。
安良衛がトンノミの方角と目印を確かめて出発しようとすると、さきほどの少年が着いてこようとした。
「ありがとう。でも、もう家に帰れ」と安良衛は言った。
少年は帰ろうとしない。
「家はあるんだろ」
すると少年は、にわかに目に涙を浮かべた。
「今年は飢饉になる。寒い日ばかり続いて、誰も彼もそう言ってる。口べらしの相談もはじまってる。おれは長男じゃないから、いずれメドチにされる」3
「なんだそれは」と安良衛は言った。
川に生息する水の妖怪。頭には皿、手には水かきを持つとされ、トオヌップでは赤い皮膚をしたメドチが人や馬にいたずらをするという。坂東あたりでは河童と呼ばれる。しかしその正体は、川に流された子供であると言われる。つまり「メドチにされる」とは、口べらしのために川に流して殺されることを意味する。途中で言葉を継げなくなった少年のために、犬松が説明した。
1615年。元和の大飢饉の原因となる凶作の予感は、すでに世に満ちていた。人々は夏前から冬の蓄え作りを焦り、採れるものすべて採ってしまうと木の根まで掘り返し、砂壁を打ち壊し藁の一本までかき集めた。
あるとき、橋の下で「もう食べたいとはいいませんから」と泣いて訴える子供の声を聞いたものがあったという。子供に食べさせてやれなくなった母が、子供を川縁に寝かせて石で頭を打ち、殺してメドチにしようとしているところだったという。
生産手段を持っている百姓はその蓄えを狙われやすく、武装して自分たちの食料を守った。しかし、暗黒時代のトオヌップに政府の警察機能は働いていない。ある資産持ちの長者の家が強盗に襲われ、一家24人が皆殺しにされ、7つの蔵が破られ、馬40頭が盗まれるという事件も発生した4。犯人たちはダンディ王国に逃げ込んだが、国境を超えて追求する力をもたなかった傀儡政権はそれになんの対処もできなかった。かくして、政権の能力を甘く見た強盗はさらに増え続け、武装した百姓はさらに殺気立った。戦えるものだけに生きる権利があり、そうでないものは人ではないことになった。
駄賃付けをしていた安良衛はこのときまだ飢饉のリアリティを持たなかったが、少年の顔にはりついた切迫した表情のなかに、アカプルコのスラムの仲間たちの面影を見た。足手まといになるのは明らかだった。何も与えられないことも。
それでも、安良衛の回路は開いてしまった。
「着いてこれなければ、置いていくぞ」
「おれは三郎」
「安良衛だ。武器はあるか」
すると三郎は、背中に負ったボロ切れにくるまれた棒状のものを取り出して見せた。
著しく錆の浮いた、長さ50センチほどのぼろぼろの剣。
日本刀ではない。安良衛には、剣闘士が用いるグラディウス5のように見えた。
鞘のない剥き身の刃は酸化し、腐食の進み具合で判断するといつ折れてもおかしくないほどに見えた。三郎は情けなそうな顔をしてうつむいて言った。
「早瀬の淵のそばで拾ったんだ」
「立派な剣だ。大事にしろ」と安良衛は言い、帰ってきたら研ぎ直してやると言った。
三郎の顔に笑顔が浮かんだ。
「ところで、おまえに頼み事をした女はどんな様子だった?」
「イシっていうんだろ。とてもきれいな人だったよ」
それは安良衛が聞きたかった答えとは違ったが、三郎がそのように言うのを聞いてみると、それ以上のことを知りたいとは思わなくなった。安良衛は、開かれた回路を通じて移動してきた何かを受容し、よくわからない理由から生じた変化をしげしげと見つめた。
ふたりは、霜でも降り出しそうな夏の寒空のなかをトンノミへ向かった。
(つづく)
湖霊 西洋でいうウンディーネのこと。
トンノミ 遠野物語拾遺三六
メドチ 遠野では昔、河童のことをメドチと呼んでいた。
田瀬の馬泥棒事件 後に清心尼が解決して暗黒時代以後の治安回復を象徴する出来事となった。
グラディウス 古代ローマが発祥の剣。