以前、週刊メディアヌップ#14において、「Twitter買収か」という話題をとりあげなかったことをわざわざまえがきでとりあげるというややこしいことをしたことがありました。イーロン・マスクによる底の浅い提案にも、それに興奮してはしゃぐメディアやブロガーにも、あきたりない思いをもっていたからです。報じられている通り買収が撤回されるのかどうか現時点ではよくわかりませんが、いずれにしろ「やはりあのときとりあげなくてよかったな」という気持ちを表明するために、再びまえがきでとりあげました。ややこしい。というわけで今週の9本です。
今週のナイン・ストーリーズ
2022年7月6日〜2022年7月12
1/ Polygonのハッカソン:日本の受賞者のアイディアとビジョン
Polygonのハッカソンが開催されたのは7/1〜7/3とちょっと前のことなのですが、開発者たちによる興奮の余韻が私の観測範囲にはその後もまだ漂っており、そのことをぜひ書き留めておきたいと思いました。ハイプを生み出すことに熱心な投資家たち(Web3においてそれは単にいちユーザーを意味します)の発言が後退して、手を動かしてコードを書く人たちの存在感が増して見えたこの一週間ほどは、自分にとってとても好ましい風景でした。
2/ 安倍元首相の死について
このような報に接したときの態度として、私がいつも心がけるのはこういうことです。信頼する書き手である畑中章宏さん斎藤環さんの言葉を紹介したいと思います。
結果として、二日ほどおとなしくしていたら事実に基づいた情報が得られるようになってきました。これも、信頼する書き手である大塚英志さん山下正太郎さんの言葉を紹介したいと思います。
メディアも政党もこぞって「暴力による言論封殺」という言葉を使っていましたが、今のところの容疑者の供述からはそうした思想的意図は感じとれませんでした。政治スキャンダルというストーリーラインへのこだわりがそうさせるのだと思いますが、誤ったメッセージを煽ることこそ、彼らの好むクリシェ「民主主義の根幹を揺るがす」ことにつながるのではないでしょうか?この問題は政治的というよりも、むしろ社会的な孤立やセーフティネット不在の観点からしっかりとした調査報道がなされることを望みます。
これからは、「政治とカルトの癒着」「社会的な孤立」「セーフティネットの不在」あるいは、私の興味引きつけて言えば「匿名掲示板文化によって生じた認知の歪みの最悪の帰結(米議会襲撃事件のかなしき日本版)」といった観点から冷静に検討を加えられるようになってくると思います。
本当は何を言いたいかというと、事件から48時間くらいの間に生じた、普段尊敬する言論人たちのみっともない言い争いは見たくなかったな、ということなんです。ごく個人的な、小さな話ではありますが。
3/ クリプトが崩壊するなか「バイブス最高責任者」とNFTインフルエンサーは物事をポジティブに捉えられるか?
「バイブス・マネージャー」あるいは「バイブズ最高責任者」「バイブズ部長」とも呼ばれるという、日本語に訳すと非常に信頼のならないタイトルに聞こえるポジションの話。その役割がまたすごい。
マーケッターとインフルエンサーとIR担当を掛け合わせたような存在で、NFTプロジェクトを新規参入者にアピールし、既存の出資者に安心感を与える役割を担っているのです。その目的は? 何があってもポジティブでいることです。
普通の感覚では、そんな人から得られる情報はまったく信頼ならないように思えますが、参加者の立場からすると印象が異なってきます。
もし、彼らが店に入ってきたとき、人々が彼らを抱きしめ、お尻を叩き、応援してくれていたら、彼らはもっと歓迎されると感じるでしょう。
確かに、こんな人がいてくれたらうれしい。
そう考えてみると、コミュニティに対して責任を持っているコミュニティ・マネージャーと違い、その場に漂うバイブスに対して責任を持っているバイブス・マネージャーというのは、いまのNFTの価値が何によって成り立っているかをよく説明しており、意外に含蓄のある言葉に思えてきます。プロダクトアウトかマーケットインかという問いも、いまでは「バイブスがあるか?」という問いの前にはやや劣勢なのかもしれません。
クリエイターエコノミー論の第一人者Li Jinによるオンラインの学習コンテンツ。内容がいい、公開の仕方がいい、フォーマットがいい。Notionを使って何か作ってみたいなと思っていたところに、大きな刺激を受けました。TRPGの世界へのオンボーディングコンテンツを、この形式で作ってみようかなと思っているところです。
主な論旨が最後のパラグラフにまとまっているのでそのまま引きます。
しかし、彼の記録をよく見てみると、センセーショナリズムのために科学を犠牲にし、しばしば重大な事実誤認を犯し、推測であるべきことを確かなものとして描いていることがわかる。また、脚注や参考文献を適切に記載することはほとんどなく、自分の考えとして紹介した思想家への謝辞も著しく乏しいため、彼の発言の根拠は不明瞭である そして何より危険なのは、彼が監視資本主義者のシナリオを強化し、彼らの商業的利益に合うように我々の行動を操作する自由を与えていることである。現在の危機、そしてこれから起こる危機から私たちを救うために、私たちはユヴァル・ノア・ハラリの危険なポピュリズム科学を断固として拒否しなければならない。
ハラリを批判的に取り上げるのは、週刊メディアヌップ#7に続いて今年2回目。世間的に過大な評価を受けており、無批判に受け入れられがちだなと常々思っているので、今後も継続的にとりあげていきたいと思います。
6/ 狭義のDAOと広義のDAO
「がっかり」という煽り文句からはじまる、中島さんによるDAOの説明の連投。
結論は、「スマートコントラクトによって自律的に運営される組織」とのこと。 基本、おっしゃる通りでして、著者もこのようにコメントしています。
ちなみに私が人に説明する場合は、狭義と広義の2種類を用いて以下のように説明します。
[狭義] 報酬とガバナンスが、透明かつ自動的にオンラインで管理されている組織
[広義] 見知らぬ人々が、インターネットを介して一緒に作業するための、安全で効率的な方法
狭義では「組織」といっているのに、広義では「方法」にまでひろげています。
ではなぜこれほどの幅があるかというと、それが単なる誤解ではなく、意思を持った「解釈」だからだろうと思います。NFTの価値を上げるワイワイ成分を欲する人がDAOという新語を用いてわっしょいするケースもあれば、人間を計算可能な道具にしてしまうプログラマティックなDAOへの拒否感からあえて人間性を加えようとするケースもあるように思います。そうした解釈が、DAOなる新語の意味をあちこちに押し広げているのだと思います。私はその混沌を好んでいます。
拙著『僕らのネクロマンシー』には、すべての記録を左腕の大容量記録装置に保存して、代わりにすっかり忘れっぽくなっている男が登場します。その左腕が失われるとどうなるか。そんなことを延々と書き続けたので、こうした研究結果は作品の援軍のように感じられて愉快です。創造は自分が記憶したものでしか行えない、という古風な考えをもっています。
8/ 参政党とは何か?「オーガニック信仰」が生んだ異形の右派政党
参政党とはオーガニック右派であるという話なのですが、自分がゲームマスターをしているTONUP TRPGに登場させた「マーフィズム」という集団の考えと重なるところがあり、どきりとしました。これは、大洪水後の世界で災害ユートピアを経験した集団が、周辺のコミュニティとの関係を切断して、すべてを自らの手で作り出すことに固執し、「大地母神マーファ」という神様の名を借りて先鋭化した集団です。
参政党が現実に支持を広げている世界にあって、オーガニック右派的なるものをフィクションを通してどう取り扱うか、よく考えなければいけなくなりました。
9/ 西村賢太お別れ会
そのお知らせを目にした時からカレンダーに予定を入れて、行こうかどうしようかと迷い、結果、行かないことにしたのが当日の朝。最後まで悩んでいました。私のような半端者が顔を出せる場所ではないと思ったためです。ミーハーで顔を出したんじゃ恥ずかしいと。
そしてこの灰皿の写真にやられました。これまでも雑誌等で見たことはあったんですが、白黒の写真だったからか、もともと岩石かなにかだと思ったんですよね。でもそうじゃなかった。本来の灰皿は土台になっている白い部分で、その上の黒いものはすべて灰とタールなんです。原稿に齧りついてきた時間の重みを感じて、やられました。やはり自分は行かなくてよかったし、行かなくても十分に刺激を受けました。
ちなみに、元々の灰皿はこれ。いったいどうやったらあんな岩石のような灰皿に……
あとがき
スマートニュースの新卒との会話のなかで、『ぼくらの7日間戦争』が共通点であることがわかり、およそ30年ぶりに読み返しました。
調べて驚いたのは、著者の宗田理が『赤頭巾ちゃん気をつけて』の庄司薫より9歳も年上だということ。さらに気になって調べてみたら、1969年の安田講堂事件のときの満年齢は次の通りでした。ついでに『ノルウェイの森』の村上春樹も並べています。
宗田理 41歳
庄司薫 32歳
村上春樹 20歳
『僕らの7日間戦争』の時代を刊行年と同じ1985年だとすると、安田講堂事件から16年後、宗田理57歳のときの作品です。事件からそう時間が経っていない85年のタイミングでなぜああもアカい小説が書けたのか首を捻りたくなったのですが、著者の年齢からすると、「安田講堂事件」も『僕らの7日間戦争』も単に屈託のないファンタジーなのかもしれないと思えてきて、そう思うと眉をひそめたくなる感じもしませんでした。実際こんな感じです。
「おれたちの解放区をつくろうと思うんだけど、お前、参加しねえか」
「解放区?」
英治は、自分より五、六センチ上背のある相原を、ちょっと見上げるようにした。
「解放区ってのはだな……」
夕陽に向けた相原の顔が、燃えるように赤い。
「おれたちがまだ生まれる前、大学生たちが権力と闘うために、バリケードで築いた地域のことさ」
「お前、どうしてそんなこと知ってんだ?」 「おれのおやじとおふくろは、大学時代に機動隊と闘ったんだ。お前んちのおやじだって、やったかもしれねえ」
どうでしょう。「屈託のないファンタジー」として、首を捻ったり眉をひそめる代わりに頬が赤くなる感じがしないでしょうか。
しかし、そうしたことを控除して考えると、「法律的に半人前の子どもたちが大人たちのルールに抗っていたずらで仕返しする」という物語のフレームの強さが際立ちます。『ロビンソン・クルーソー』のように永遠に反復可能な物語のフレームで、少なくとも、「義務教育」と「未成年」というものがなくならない限り有効そうです。『僕らのネクロマンシー』も勝手「ぼくら」シリーズとしてそのフレームを真似してみようかしら、などと思いました。
ではまた来週。